襖を開けて蓮に近寄れば、蓮は言った通り冷蔵庫に備え付けられているペットボトルの麦茶を飲んでいた。
「俺にもちょうだい」
「……冷蔵庫に入ってる」
 健悟が近付いた事によって、蓮がペットボトルを持つ手に力を入れたことが分かったが、健悟はそれを無視して手を伸ばす。
「ちょうだい?」
「……」
 無言のままに差し出されたそれを健悟が受け取ろうとしたら、手が触れそうになった寸前で明らかに手を引っ込められてしまった。
「あっぶな」
 健悟が奇跡的に掴み取ったから良いものの、ともすればそのまま落ちてカーペットを汚していたかもしれなかった。
「……女子か」
「自分で言っちゃう?」
「うるせぇよ」
「あはは、ごめんごめん」
 自分の掌を見ながら呟いた蓮に、キスをしてそんなに素直な反応を示されたことは初めてで、つい笑ってしまった。
 その一言によって、この前のように有耶無耶にされるのではなく、ちゃんと蓮が意識して覚えていてくれたことを知った。
「俺、謝んないかんね」
「……」
 ゴクリ、嚥下する喉元に蓮の視線を感じて、健悟は更に身体が熱くなる。
 正当化するのならば、無防備な蓮が悪いと、そんなにも警戒心のない蓮が悪いと、そう言ってしまいたいほどだ。
 半分まで飲んだ麦茶に蓋をして、ゴトンと机に置くと、不自然に蓮の肩が揺れて目を逸らされてしまった。新たに産まれた警戒心が正しいと思いつつも、それが寂しいと思ってしまう自分はどれだけ勝手な人間なのだろうか。
「れん。散歩でも行こっか。外折角綺麗なんだし」
「独りで行けよ」
「俺と一緒に行くのは嫌?」
「……」
 ペットボトルを蓮に戻しても、それを触る気配も無ければ、蓮から返事が返って来る事はない。それはつまり、否定の言葉も返って来ていないということだ。
 沈黙は肯定の証だと、健悟は部屋の鍵を持ちながら独り立ち上がる。
「ほら。おいで」
「はァ?」
 そして座っている蓮に向かって手を差し出したのだが、蓮はまるで意味が分からないとでも言うように、首を振って拒否した。
「いーから」
「ちょっ!」
 しかし、その意見すら今の健悟の前では不採用、健悟は部屋の中で蓮の手を握ると、そのまま廊下へと連れ出してしまった。
 不必要に物を避けて通っていた蓮は今は居らず、健悟に連れられその意識が全て手先へと行っているようだった。
 視線を集める事には慣れているものの、たった一人の視線がこんなに気持ち良いものだとは知らなかったと、健悟は旅館内を闊歩する。暫く進めばその先には中庭があり、外に出れば少し欠けた月に照らされた花々がしおらしく咲いていた。
「あー、やっぱさすがだねぇ、すごい綺麗」
「ちょっと、おまえ手ぇ離せって……ダメだって。こんなん誰かに見られたら変に思われ――」
「周りは関係ないじゃん。蓮が気持悪いと思ったなら離せばいいよ」
「それ、は……」
 狼狽の表情を見せた蓮に、健悟はほっと安堵した。
「良かった。ま、気持ち悪いっていわれても離さないけど」
 健悟は再び微笑み、蓮の手を強く握り直してから歩き続ける。
「……ちょ、マジなにおまえ、どうしたの……」
「さーねぇ、なんか切れちゃったのかも」
 ぷつん、と切れた理性の音はいつまで続いているのだろう、蓮の赤い顔を見て強気になってしまった自分が居ることは否定できなかった。嫌だと否定されれば心が折れて立ち直れなくなることは分かっていたが、それ以上に、再び触れた唇が心地良くて、全てがどうでも良くなってしまったのかもしれない。
「はぁ……? 意味わかんねぇ……」
 そんな健悟の背中を見つめる蓮は、いつもとは明らかに違う様子に狼狽を隠せなかった。風呂上りからを総合した健悟の行動は、“人恋しい”で処理できる範囲を超えているだろうと、蓮はその背中を見て溜息を吐くことしかできない。
「……卑怯もん」
「なんのことだか」
 何の前振りもなくされたキスならば、ふざけるなと罵倒することが出来るのに、たかが台本だと言われれば言及なんて何も出来やしない。
 それで突っ掛かって恥ずかしい想いをするのは、きっと尋ねる自分の方だ。
「……大人っつーのはズリィ生きもんだよな」
「それすごい分かる。利佳が良い例だよねー」
「てめぇのことだっつの」
「いってぇえ!」
 繋がれた手を良いことに、伸びた爪先を精一杯健悟の手の甲に押し付けると、涙目で振り返られた。健悟の手の甲についた複数の爪跡を鼻で笑ってやる。ザマァミロと舌を出した蓮だったが、またキスをされたら敵わないと急いで口元を手で覆い健悟を睨み付けた。
 それを見た健悟は楽しそうに笑い、わざとらしく投げキッスをしてくるものだから、蓮はその背中に満身の力を込めて頭突きしてやった。
 痛いと叫びもう片方の手で背を撫でる健悟に、漸く勝ったと鼻を鳴らす。
 痛いと喚いている筈なのに、それでも笑っている健悟がなにを思っているのかは分からないけれど、以前よりも幾分真面目な様子に、とくんとくんといつもよりも心臓が揺れている気がした。
「あ、この花ちょう綺麗じゃない?」
「ソーデスネー」
「うっわぁ投げ遣り」
 キスをされたとき、愛していると告げられたとき、たかが台本だと分かりつつも、何故自分があんなに動揺したのかも分からない。
 この前のように軽く流してしまえば終わる問題だったというのに、勝手に顔が赤くなってしまったのだ。怒れば良かったのに、叩けば良かったのに、其れよりも先に勝手に身体が反応してしまった。
 分からない。でもきっと、こんなにも綺麗な顔が近付いてきたら、誰だって顔を赤らめるだろう。そうに違いない。女子ならば鼻血を出して倒れる場面を俺は赤くしただけで堪えてやったんだ。これってスゲェことだろう。大丈夫だろ。マトモだろ。いけんだろ。
 今も、今だって。
 脚を進める健悟は、転びそうになっても俺の手を離すことだけはしなかった。
 これはきっと、手を離すタイミングがなくて繋いでいるだけだ。
 ただ、繋がれているだけ。
 それ以上の意味も、それ以下の意味もなにもない。
 ただ、繋いでいるだけ。

 ……べつに、このままで居たいなんて、思って、ない。



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あきゅろす。
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