あ、むり。うそうそやばい。
 率直な感想がぱっと頭に浮かんだのと、健悟の手が蓮へと素早く伸びた瞬間はほぼ同時だった。
 物珍しそうに台本をなぞる蓮の手首を掴むと、一瞬落ちた静寂に、どくどくと心臓が信じられない位に悲鳴をあげていることが分かった。
 やばい、と感じた一言に込められた想いは数え切れず、欲求ばかりが先行してしまいそうだ。ぎり、と手首を掴み直し、迷う位ならばもういっそ、と覚悟を決めたその瞬間。
「は? いてぇんだけど」
「!」
 蓮からは怯むでもなく怒りの侭に睨みを頂戴して、べちん! と室内に音が木霊するほどに手を叩かれてしまった。
 突然の暴挙を予想だにせず、脳内では既に蓮を布団へと押し倒すイメージすら浮かび上がっていただけに、そのダメージを受けたと自覚するまでに数秒の時間を要した。咄嗟の事に「痛い」と広言することすら出来ず、蓮から受けた鋭さに健悟が急いで手を離すと、表情は一変、眉を顰めた蓮が此方を訝しげに見上げていた。
「頭沸いてんの?」
 突然手首を掴まれたのならば正しい反応だ、嫌悪を露に見上げてくる蓮に、何も言えずぐっと押し黙る。
 蓮が以前夜中に帰ってきた時にも同じ事があった気もするが、蓮からのこの反応の違いといえば、あの時とは自分の状況も表情もきっと違っていたのだろう。憤怒に染まるでもなく只情欲に満ちた目を蓮に捉えられたと思うと、図らずしも「しまった」と心の中で膝を付いていた。
「……や、ちょっと飛んだ……」
「はぁ?」
「いや助かった……ありがと……」
「?」
 御礼を言えば意味が分からないと首を傾げられてしまったがそれも仕方の無いことだ。もし今暴挙に出ていたならば、その一瞬でこれからが消え去ってしまっていたかもしれない。蓮が得意なゲーム宜しくゲームオーバーを迎えたとしても、現実にリセットボタンは存在しないのだ。行動に気を付けようとは再三念頭においていた筈なのに、良い加減にしろよ、俺。
 蓮に叩かれたことを反省し、深呼吸し空気を正すも、それでも欲求が消えた訳ではなく、脳内を支配した残像が絶えず襲い掛かってくる。
 うわもういいかげんにしてまじで。
 やばい、さわりたい、きすしたい、おしたおしたい。
 邪念が消えない脳内を見透かされたら大変なことになるだろうと思いながら頭を抱えていると、隣からは至極無邪気な声が聞こえた。
「まいーや。どっからー?」
 蓮にとっては終わったらしい話題を気にする素振りは無く、楽しそうに音符を飛ばしながら台本を捲っている。
 しかし健悟はその無垢な目を直視することが出来ず、一瞬浮かんだ疚しい考えにごくりと生唾を飲んでいた。判断は一瞬、駆られた情欲に身を任せれば、台本を捲る手は当初開いていたページをいとも簡単に通り過ぎ、ぺらぺらと末尾付近のとある場面を指差した。
「……こ、っから」
 罪悪感を抱きながらトントンと台本を叩くと、心臓が再び制御できずに駆け出し始めた。
 何も知らぬ蓮が楽しそうに台本を覗き込み、並んだ二つの名前を指差して健悟に尋ねる。
「オッケー。どっちがどっち?」
「俺が今やってる役がこっち。だから、蓮はこっちね」
「ん」
 こくり、と大きく頷きを見せた蓮は未だ音符が周囲に舞っていて、この奇妙な状況を楽しんでいるようだった。
 そして、健悟に「いくよー」と一言断ってから、指で台詞をなぞりながら読み進めて行く。
「えーっと、なになに、『ソレハホントウニアナタガエランダコトナンデスカ?』」
「ぶっ、すっげー棒読み」
「っるさい」
 健悟からの指摘に蓮が恥ずかしそうに呟くと、その顔を健悟が可愛いと心に秘めたのは一瞬、一頻り笑ったあとで咳払いと共に喉を整えた。
「っし、いっくよー。……――『はい、勿論自分で決めた道です、誰に言われた訳でもない。俺の意思です。今更何を言われても変わることはないでしょう。でも――』」
 スゥと息を吸ってから、一文字を放つ度に一変する空気、まるで別人のような“真嶋健悟”に中てられてしまい、この近距離でも得体の知れない波に呑まれてしまいそうだった。
 隣からビリビリとした緊張感が伝わり、その真面目さに蓮がゴクリと唾を飲んだとき、健悟が次の台詞に行くべくペラリと脚本を捲った。そして、次のページの初めに書かれていた文字とは――。
「……え、」
 驚きと共に蓮が顔を上げると、その瞬間、再び既視感に襲われた。
 “あのとき”とまるで同じ状況に眼を瞑れば、やはり二回目、唇に柔らかな感触が押し付けられた。角度を数度変えられ、別の箇所で弾んだ後、音もせずに去って行く。
 突然の奇行に蓮は吃驚してしまい眼を開けられずにいると、離れた筈の箇所がまた戻ってくる気配があった。息も出来ず、思考回路が断絶してしまったように驚きのみが浮かび何も考えられない、すると、そのまま上唇を唇で挟まれ、肩を震わせてしまった。ふにふにと唇が玩ばれているのは気のせいではなく、其れほど迄に健悟が間近に居ると分かった瞬間に、ぞわぞわとした何かが身体を走り抜けた。
 そして、如何する事もできずに胡坐の上に乗せていた拳を一層強くぎゅっと握ったとき、漸く健悟の匂いが弱くなっていった。
 目を閉じていても分かる蔭が消え、漸く呼吸を取り戻すことが出来た。浅い息を繰り返しながら恐る恐る眼を開ければ、目の前に居るのは“真嶋健悟”。その灰色の眼いっぱいに自分の驚嘆顔が映っていて、その甘美な色合いに対し身体中を鳥肌が掻け巡った。
「『愛しているんです、貴女を』」
「っ……! 、おいっ!」
 聞こえた言葉は一字一句違わず、台本に載っているものだ。指定されたこの口付けも、この言葉も、先ほど見た台本と変わらない。
 それでも、そうとは分かっていても、面と向かって言われた台詞に顔が真っ赤に染まってしまうのは不可抗力だと己の経験の無さを恨むしかなかった。
「『おい』? そんな台詞ないよ」
「ちっげぇよ! だって、おっま……!」
 蓮は急いで手の甲で唇を押さえ健悟を見るが、眉はハの字に下がってしまっているだろうし、眼には涙さえもが浮かびそうだ。情けない自分の姿を見せないようにともう片方の手で健悟の眼を隠せば、その手をぐいっと引っ張られてしまった。
 再び目がいくのは容の良い唇ばかりで、どくどくどくと心臓の音が煩くて仕方がない。強い瞳が窺える姿に、此れはまだ“真嶋健悟”なんだろうかと思った、そのとき。
「……なにその反応。……やめてよ、こっちまで顔赤くなんじゃん」
 蓮の火照りきった頬に釣られてか、今度は健悟までもが頬を手で隠し蓮から眼を逸らした。
 その上気した耳を見た蓮が、相手が“真嶋健悟”ではないことを悟ると、何故だか更に頬に熱が集まってしまい、健悟の手を振り払いながら布団の上に立ち上がった。
「うるっせぇよ! やっぱテメェダメだ、もーう信じねぇ! 来んな触んな近寄んなっっ!!」
「や、ごめん、違うんだって。なんか……可愛すぎて……」
 暴れる蓮の手を健悟は再び取り、眼を合わせる二人。可愛いと面と向かって言われるものの、そんな台詞、台本には書かれていなかった。
「ばっ、馬鹿にすんじゃねぇ! つーかバーカ!! バーカバーカ!!!」
 顔を赤くしたままに怒鳴りつけても、きっと何の説得力もないだろうことは分かっている。それでも叫ばずにはいられなかった。
 蓮はそのまま耐え切れず、布団の上から脱兎の如く逃げ出した。
「れんっ!」
 しかし、後ろから掛けられた声の余りの鋭さに、思わず肩を揺らし立ち止まってしまった。
「……っせぇ、飲みモン取ってくるだけだよっ」
 赤くなっている頬を自覚しながら、口を尖らせて部屋から出ていく。自分のことに精一杯で、健悟の顔は確認することは出来ないままだった。
 何故こんなにも恥ずかしいのかが分からない。それでもきっと今まで生きていた人生の中でナンバーワンの恥ずかしさに、蓮は健悟の居る部屋から足早に逃げ出した。
 そうして独り残された健悟は、以前にキスを交わしたときとの蓮の反応の差に、どうしたものかと頭を抱えてしまった。
 あのときはなんともなかったような顔をしていたというのに、今回の蓮は目に見えて顔を赤くしていた。
 今までしてきたキスを全て忘れられるような純粋な反応に、感染してしまった恥ずかしさから、健悟は誤魔化すように台本に拳を突き立てる。
「……こんなとこ、明日やるはずねぇだろ……」
 以前、蓮にキスシーンもあるんだと突っ込まれたラストシーン、此れは既に東京で撮影を終わらせてきた場所であり、わざわざロケ地で撮る場所ではなかった。
 少し考えれば分かるだろうと蓮に賭けた自分、理由を付けなければ触れられない己の弱さと、言い訳がましさに嫌気がさす。なんて大人気無いんだろう。なんて馬鹿なことをしているんだろう。
 そうは思っても、詰まるところ疚しさが先行してしまったことも事実だった。反省はするけれども、それでも、以前とは全く違う反応を見せてくれた蓮に喜ぶ気持ちの方が前に出てしまう。意識していたのだろうか、恥ずかしかったのだろうか。少しは、近付けているのだろうか。
 それを何故と追究したところでウルセェ! と咎められるだけなのだろうが、上気した蓮の頬は余りにも可愛いもので、触りたいと率直に思えたもので、それは、今の一秒でも離れて居たくないと健悟に思わせるには充分なものだった。



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