「東京人っつーのは服脱ぐのもオセェのかよ」
「……ごもっともです」
 厭味雑じりに蓮から投げられたこの会話は、二人が浴室内で交わした最初の一言だったのだが、罪悪感から不自然に目を逸らした健悟が張本人を視界に入れることは一切なかった。
 案の定誰も居ない水面を揺らしているのは蓮のみで、コポコポと絶えず注がれる湯元の篭もった音が室内に響き渡っているほどに静かな場所だった。そんな中、温泉に浸かっている今も二人は一定の距離を保っていて、その可笑しな遠さは蓮が首を傾げてしまうほどだった。
 東京人は皆こうなのか? と思っていても比較対象が存在しないのでなんとも言えず。すぐちんこ触ってくるあいつらが可笑しいのか、と悪友の顔を思い浮かべるが、普段の廻りの宿泊客を見るにそれはなんとなく正しい気がした。
 身体も髪も顔も洗い、お互い上気した頬を惜し気無く晒して居る中、蓮がふと視線を感じて目をやれば、きっちりと健悟と目が合った。視線が合うなど何時ものことだというのに、状況が状況なだけにその視線に眼を瞬いてしまった。しかし健悟と眼が合ってから数秒後、のぼせそうだと呟く健悟の顔は本当に赤く、流石の蓮も悪態を引っ込めた。熱いと定評のある湯は蓮にとっては気持ちのいいものだが、健悟にとっては苦痛なのかもしれない。的外れな見解と共に蓮は健悟を風呂から上がらせたが、健悟にとってはこれが良いのか悪いのかの判断はつかなかった。
 脱衣所で蓮を待とうにも、風呂上りの姿を想像するだけで卑猥なものでしかない。健悟は邪念と共に用意された浴衣を着ると、蓮に声を掛けてから部屋へと戻って行った。
 たった数分の間に寿命が何年縮んだかも分からない風呂は、健悟が過ごしていた人生の中で一番刺激あるものだった。関係を持っていた女性と入っても感情を此処まで揺さぶられたことはなかったと溜息を吐きながら、独り、広い部屋へと消えて行く。
 まだまだ長い夜、此処には何時も止めてくれる利佳が居るわけでもない。邪魔者が居るわけでもない。
 完全に隔離された空間、蓮の部屋でふたりきりとは訳が違う状況に、健悟は頭を抱えるしかなかった。
 惜しげも無く裸を見せられた上に、嘗てないほどに上気した顔は見た事がなかった。ぽんぽんと頭に湧き出てくるものは新しく発見した蓮ばかりで、早まったかもしれない、と溜息を吐くのは当然のことだった。
「大丈夫なんかよこれ……」
 ぽつり、小さく呟いたところでガラガラと扉が開き、真後ろからの突然の音に健悟は肩を震わせてしまった。
「うおっ、びーっくりしたー。なんでんなとこ突っ立ってんの?」
 扉を開いたのは勿論蓮で、ぐしゃぐしゃになった制服を手にしながら、浴衣を緩く着込んでいる。
「あ、湯中り大丈夫なん?」
「……おかげさまで」
「あそー」
 面倒臭がり屋の癖に髪の手入れはしっかりしているのか、髪は既にドライヤーで乾かされていて金色の天使の輪っかを取り戻していた。
「あぁっちぃ〜」
 蓮は手団扇で扇ぎながら健悟の横を通り過ぎ、和室に敷かれている布団に勢い良く飛び込んだ。
「あー、やっべー。やっぱ布団だよなぁ日本人は〜」
 ふかふかの布団にすっかり気を良くしたのか、蓮は子供のようにごろごろと寝転び回る。
 しかし、その度に着ている浴衣がはだけてしまい、だんだんと生脚が顔を出してくることに、健悟は最早わざとやっているのではないかとの疑いを強め、拳を握り締めるしかなかった。
 蓮の頬は緩みっぱなしで、最上の空間を棄てて五十嵐家に通っている健悟の思考というものをどうやっても理解することは出来ないと物語っているようだった。
 その張本人、健悟が溜息と共に蓮の隣の布団へと腰を落とす。健悟が胡坐を掻いている下に蓮が居るのだが、大の字を書きながら布団に寝そべる己と、二つ並んだ布団というキーワードがとても新鮮に思えた。
「つーか初めて違うふとんで寝んじゃん、俺等」
 漸く狭いベッドから解放されたと、蓮が揶揄を込めて言えば、上から見下ろすかのような笑みが返って来る。
「なにー? 蓮くんは一緒がいいんですかー?」
「んなわけあっか、うっぜぇー」
 蓮の言葉に反発するように、ふざけて布団の領地を侵略していく健悟は、仰向けで薄く笑みながらもしっかりと視線を向けてくる蓮に対し、むずむずとした衝動が腹下から湧きあがっていることに気付いた。見下ろす角度も布団という場所も、誰も居ないこの空間も、意識してはいけないと誤魔化すように、手近にあった枕を蓮の顔へと押し付けた。
「おりゃ」
「うおっ!」
 白い枕の下で、蓮が笑いながら足掻いているのが分かるその体勢、蓮は周りが見えないながらも感覚で自分の枕を探し出し、お返しと言うように今度は健悟へと押し返した。
「ってぇ!」
「バーカ!」
 その一瞬、体勢を崩した健悟に、負けじと押し付けられていた枕を今だと投げつければ、まるで中学の修学旅行の夜を思い出してしまった。
 何が引き金だったか分からないこの不毛な争いをくだらないと御互いに思いつつも、それでも結局は笑顔で枕を投げ合っていた。
「ひーっ、ギブ!」
 そして先に体力の限界が来たのは健悟で、ばたっと蓮の布団の上へと倒れ込んだ。
「へっへー、健悟オジサーン」
「うわそれ地味にヘコむから止めて」
「ははっ、マジバカなんだけど。枕投げとか普通大勢だっつーの」
 両者息が上がっている中、蓮も笑いながら健悟の隣に寝転ぶ。風呂から上がったばかりだというのに、無駄に動いたせいで蓮の肩が絶えず上下していた。胸元が大きくはだけた浴衣の下、首筋から汗が伝い、きらきらと光るそれを健悟が眼にした瞬間、ヤバイということは本能的に悟っていた。
「……あーっと、」
 精一杯の理性が残っているうちに、それを振り絞って蓮から離れ立ち上がった。
 既に目は壁にいっている筈なのに、浮かんでくる残像に勘弁してくれと嘆きながら、立ち上がった手前鞄へと足を向ける。
「けんごー?」
「……あー、台本。チェックしてないの思い出して」
 ぱっと思いついた言い訳を実行するべく、健悟は蓮から少し離れた場所で、鞄から台本を取り出した。
 此方に目を向ける蓮は警戒心の欠片も無いのか、未だ胸元も足元も肌色が大部分見えていて隠す気配も無いようだった。此処で直すのも友達同士の仕草としては可笑しいのだろうかと悩んでいると、再び疑問に満ちた返答が返って来る。
「チェック?」
「いつもは蓮が帰ってくる前にやったり終わってからやるんだけどさ、今日は誰かさんと一緒に帰って来たから明日の分見てないのよ、台本」
「……俺の所為かよ」
「ふはっ、ちがうちがう」
 わざとらしく云った根底には拗ねた蓮の顔が見たいという邪念が存在していて、願った通りだと健悟は満足そうに微笑んだ。
「ちゃんと全部頭には入ってるけど不安なだけだって、拗ねんなよ」
「……」
 これくらいなら、と蓮の頭をぐしゃぐしゃと掻き乱せば、どうやら蓮はこの行為に弱いらしい、止めろと振り払うこともなくすっかり黙って視線だけを健悟に預けてきた。
「全部って……これ一冊?」
「だねぇ」
「……俺、おまえには勉強教われねぇって言ったけどさ、撤回しよっかな」
「いや、しなくて良いと思うよ。覚えて消化したらスポーンと抜けちゃうし」
「はー……」
 蓮のぽかんと開いた口に対し、声を上げて笑った健悟だったが、蓮にとってはその力をテスト前だけ分けて欲しいと願うばかりだった。健悟が開く台本はぎっしりと文字で埋まっていて、何かの略なのか、訳の分からない英語も所々に書いてある。それが全ページ続くのだと思うと、たとえ一時期だけでも暗記することは自分には到底不可能だと思ったからだ。
「あ。じゃあさ、折角だから付き合ってくれる?」
「おう、いいよいいよ、面白そう」
 滅多にないであろう機会に、蓮は嬉々として布団から起き上がり健悟の隣へと移動した。
 一つしか無い台本を一緒に読むために隣で胡坐を掻いているが、それは、健悟の予想以上に近い距離だった。胡坐を掻く蓮の浴衣の隙間からは然程日焼けしていない脚が伸びていて、胸元からは他と肌色が違う乳首がちらりと見えてしまった。
 本来男同士ならば流されるべき点だが、健悟にとっては風呂場でも直視できなかったそれに驚き、ぴきりと身体が固まってしまった。心の準備すら整っていなかった突然の攻撃に怯むと同時に、一瞬にしてプツンと、髪の毛よりも脆い理性が切れる音がした。



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