「うわヤベ、テンションあがるこれ」
 うっかりにやけてしまいそうな口元を押さえながら、蓮はぽつりと呟いた。
「そういうもん? 地元なのに」
「地元っつったって入る機会ねぇもん。あ、やべ、ばれないようにしねぇと」
「別に良いのに」
「俺はヤダね、うるせぇのは嫌いだ」
 騒がれることなど御免蒙りたい蓮は、辺りを厳重に確認しながら健悟と共に旅館へと入っていった。
 あのとき、喧嘩寸前の蓮の部屋で交わされた小さな約束、簡単に取り付けられたそれでもきちんと叶えられたことに安堵しながら、蓮は己の家よりも断然広い廊下をゆっくりと進んで行く。
 旅館の裏手にある友達の家に遊びに来たことはあったが、本館に正面から入ることは初めてで嫌が応にも気分は高まってしまう。
 健悟に案内されながら綺麗な床を歩いてみるものの、所々に壺や掛け軸があったり、見える中庭が本当に家から数分しか離れていないのかと疑ってしまう程に綺麗に整備されていたりと、蓮は必要以上に周囲に距離を取りながら進んでいた。
 そして、他愛無い話をしながら進んで行けば、健悟が一つの扉の前で止まり、にっこりと蓮に微笑みかけた。
「ようこそー、って俺の家じゃないけど」
 扉をがらがらと開き、慣れた所作で中に進んでいく健悟。そんな健悟の後に続き、蓮も靴を脱いで上がると、そこには信じられない空間が広がっていた。
「ひっ、……ひろっっ!!」
 こんな田舎の旅館だから所詮は小さなこじんまりとした部屋だろうと想像していたというのに、視界に入ってきた、畳の数を数えたくなくなる程度には大きな部屋は、蓮に対しまるで鈍器で殴られたかのような衝撃を与えていた。
 明日からは旅館の息子に対する態度が変わってしまいそうだと思いながら、田舎物上等きょろきょろと襖で仕切られている部屋を覗いていくが、其のどれもが和風で非の付け所の無い綺麗なものだった。
「ね、一人で使うには寂しいでしょ?」
 すると、蓮の様子を微笑みながら観察していた健悟から声が届いた。まるで当然のように部屋を使用する健悟は誇ることも驕ることもせず、唯平然と、鞄に入れていたらしい鬘を手で整えているところだった。
「……や、そーだけどよ、なんか、相部屋とかあんだろ……」
「あー。俺ダメなんだよね、誰か知らない人と居るのとか。気ぃ使うの疲れちゃうしさ」
「俺も充分知らない人ですけどね」
「なーに言ってんの、蓮はトクベツ」
「、」
 さらりと健悟の口から飛び出た言葉に、先程の体育館を思い出してドクンと一瞬鼓動が跳ねてから、衝動が身体中を駆け巡った。
 健悟が自分を見つけてくれたあのときだけは、些細な優越感と共に自惚れを抱いていたものの、まさか言葉に出して本当に言ってくれるとは思わなかった。
 それと同時に、誰にでも見惚れられるこの完璧人間が、何故田舎者の自分なんかに優しくしてくれるのか、同じトーンで笑ってくれるのか、新たな疑問が湧き出てくる。
 誰に対しても特別なのは健悟の方で、まさか自分なんかをそんな風に言ってくれるとは夢にも思っていなかったからだ。
 考えてみれば、健悟と自分は出逢って数日、フィーリングが合ったといえばそれまでだが、こんなに歳の離れた自分と一緒に居ても何のメリットもないし、健悟は楽しいのだろうか。
「荷物ちょーだい」
「……ん」
 しかし、突然、空気を切るようにそんな重い質問をぶつけることも憚られ、蓮はいつもよりも重いスクールバッグを健悟へと渡した。仮に聞いたとしても、優しい健悟だからこそ「楽しくない」と答える筈は無いだろう。
 それよりも、きっといつもは誰かに世話をして貰っているのだろう健悟が、いまは自分に世話を焼いてくれている光景が酷く不思議なものに映ってしまった。
「御飯が良い? お風呂?」
 そしてバッグを棚に入れた健悟が蓮へと向き直り真顔で聞くものだから、蓮は耐え切れず「ぶはっ」と噴き出してしまった。
「んだその質問。新婚か」
 くつくつと笑いながら思ったままに突っ込むと、意味を理解したらしい健悟が過剰反応と共に顔を赤くする。
「、……はぁっ!?」
「あはっ、キメェ。顔赤くしてんじゃねぇよ」
「……うるっさい」
 赤い顔をしながらも拗ねる健悟に、再び“真嶋健悟”の残像が頭を過ぎり、蓮は更に笑ってしまった。本当に同じ人物かと疑うことは、これで何度目の事だろうか。
 赤く染まったその顔をかわいいと思った自分を咳払いひとつで払拭し、違う違うと首を振りながら健悟へと向き直る。
「風呂も入りてぇけどさ、とりあえず超腹減ったしそっちが良いな、健悟は?」
「いいよ、あわせる」
「そ。いやたのしみだわー。どんなん来んだろ」
 分かりやすく音符を飛ばせば、健悟が電話をして食事を二人分頼んでくれているようだった。
 しかしよく考えれば、健悟は御飯を食べに家に来ているのだから、もしかして期待しないほうが良いのだろうか。頭の片隅を捻らせながら健悟と他愛無い話をしていると、数分もしないうちに部屋の襖の奥から声がかかった。
 健悟が答えた後、着物を来た線の細い女性が料理を運んで来たのだが、蓮はその運ばれて来る品目数に眼を丸くしてしまった。
 健悟が余りにも普通に対応しているものだから努めて平然を装ってみるものの、高価そうな青い皿に盛られた刺身や天ぷらなど、嘘だと言ってしまいたくなるほどに多くの品目が所狭しと机の上を支配していく。茶碗蒸しに付くスプーン一つとっても滑らかで本物の木のようなそれに、くらっと眩暈にも似たふら付きが生まれたのは一瞬、蓮の顔はみるみるうちに青くなっていった。
「蓮?」
 女性が出て行っても微動だにせず机の上を凝視している蓮に、健悟は不審そうに呼びかける。
 すると、先程までの覇気をすっかり無くした蓮の瞳がじわじわとぼやけていき、若干涙混じりに声を震わせた。
「……お、おれ、金もってねぇよ……?」
 眉根が寄せられて窮屈そうに発されたその一言に、健悟はきょとんとしながら首を傾げる。
 いきなりなんだと勘繰ってみるものの、蓮の視線は分かりやすく机の上の食事にいっていて、蓮の言った意味を漸く理解すると、失礼だと分かりつつも盛大に笑ってしまった。
 蓮から見えないように俯きながらくつくつと笑えば、心配する蓮を今すぐに抱き締めたいという素直な欲望が頭を駆け巡ったが、蓮との間にある広いテーブルの御蔭で助かった。
 野暮なことを言うなと弧を描く唇で紡げば、蓮の瞳は瞬きを繰り返し、そういうもんなの? 大丈夫なの? と言葉無くまるで小動物のように聞いてくるものだから、いつもの蓮とのギャップに健悟は自制心を閉じ込めるかの如く拳を握り締めることしかできなかった。
「あーもう、ほら。大丈夫だって、食べようよ」
「い、イタダキマス……」
「いただきます」
 それでも相変わらず手を合わせて行儀良く挨拶をする蓮に、健悟は微笑みながらその姿を眺めている。
 しかし蓮が健悟に再び眼をくれることはなく、恐る恐るといった様子で必要以上に長い艶めく箸を鮪の刺身へと伸ばしている。醤油に付けるという作業一つとっても唇を真一文字に結びながらの蓮を見て、健悟は堪え切れないとばかりに口元を押さえたが、真剣な蓮がそれに気付く事はなかった。
 そしてそのまま蓮が口元へと鮪の刺身を運び、もぐもぐと口を動かす。脂の乗ったそれを易々と嚥下すれば、ゴクリと聞こえたその瞬間、蓮はぴたりと動きを止めてしまった。
「どした?」
 健悟が問えば、キッと睨むような視線を送ってきたので、己の邪な思惑が蓮に伝わってしまったのだろうかと一瞬で肩を強張らせる。
 しかし。
「……おまえ明日から俺ん家出入り禁止な」
「うえぇっ!?」
 蓮の唇が紡いだ言葉はそれ以上に辛辣なもので、健悟は眼を大きくして蓮に詰め寄った。
「なっ、なんで!?」
「なんでじゃねぇよ! だって超うめぇじゃんこれっ! オレん家来る必要ねぇよ、意味わかんねぇっ!」
「あ、そういうこと……びっくりした……」
 蓮が告げた途端安心したように身を落ち着かせる健悟に、蓮は首を傾げてしまう。
 無論出入禁止は冗談にしろ、家には飯を食べに来ていると言っていた健悟の舌が到底信じられなかったのだ。
 いやたしかにかーちゃんのメシもばーちゃんのメシもうめぇけど。なんだあれか、よくいうあれか、あの、美人と同じで高級料理っつーのも三日で飽きんのか? わっかんねぇ、おれなら死ぬまで食い続けるぞこんなうめぇメシ。
 うーんと悩みながら尽きない疑問と共に健悟に眼を向ければ、その瞬間、やはり高価そうな御飯を摘む健悟に見惚れてしまった。
 纏うオーラは“真嶋健悟”ではないというのに、結局は変わらない男前な風貌に視線を奪われてしまい、ぽうっと眺めてしまうのだ。綺麗な箸遣いが様になる健悟は、イタリア料理でもなくフランス料理でもなく、成程和食が絵になると蓮は一人頷いた。
 そして緩く首を振って健悟から意識を取り戻して、蓮は冷めないうちにと再び料理に手を付ける。
「うーっわ、これうまっ!」
「ぶはっ」
 しかし、口の中で拡がる蕩けるような甘みに蓮がぱあっと笑顔になれば、健悟は口元を押さえてくつくつと笑いを堪えている。
「……貧乏人を笑ったなコノヤロウ」
「ちっがうよ、ごめん、思い出したの。俺があのジュース美味いって言ったとき凄い呆れたみたいな眼で見てたんだもん、蓮もちゃんとそんな顔するんだね」
 言われて蓮も思い出すのは、二人で野菜を取りに行ったとき、紫蘇ジュースを健悟が口にしたときのことなのだろう。確かに驚きはしたものの、そんなに冷たい視線を送っていたのだろうか。
「……それは、おまえがあんな、コッチのモンで喜ぶなんて思って無かったし」
「これも“コッチのモン”でしょ?」
「……」
 蓮が食べていた料理を箸で指されれば、確かにと黙り込むしかない。
 反論できない蓮の様子に健悟が再び笑いを噛み殺しながら、蓮が美味しいと評した料理を皿ごと蓮の領域へと差し出した。
「うそうそ、ほらこれあげるから」
「マジ? え、いいの?」
「どーぞ」
 にっこりと笑えば、素直に喜ぶ蓮の顔が視界に入ってきた。こんなことで喜ぶのならば、自分の料理を全部差し出しても構わないと健悟は微笑み続ける。
「あ、じゃあオレこれやるよ、おまえ好きだっつってたよな」
「……え?」
 しかし、蓮が苺の乗った器を健悟の領域へと差し出してきたことによって、健悟の笑顔にはあっさりと終止符が打たれてしまった。
「え? 違った? アイス食ってるとき言ってなかったっけ?」
「言った……けど、よく覚えてんね」
「はぁ? おまえが言うそれ。健悟の記憶力のが感心するっつーの」
 敬語がどうたらこうたら、と続ける蓮はきっと昨日のことを言っているのだろう。あのとき、「敬語が警戒の証」と告げればそのことすら覚えて居なかったのか、酷く驚嘆に満ちた目をしていた。
 健悟にとっては、自分が蓮の言葉を聞き逃さないというのは最低条件で至極当然のこと。
 しかし、蓮が少しだけでも自分のことを覚えていてくれたという事実は初めて遭遇したもので、嬉しさばかりが脳天から足先まで拡がり支配した。何気ないあの会話を、蓮が覚えていたなんて。蓮の頭の片隅にでも自分の記憶が残っていた。産まれていた。蓮の領域を着々と侵略しつつある己を知り、左腕にゾクリと鳥肌が走ってしまった。
 今にも全開に緩んでしまいそうな頬をどうしてくれよう、と思いながら、美味しそうに料理を口に運ぶ蓮から眼を逸らすことしかできなかった。



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