悔しいとは思う暇無く純粋に見惚れていれば、健悟の撮影が終わる時間などというのはあっという間の出来事だった。
 其れよりも独り体育館の裏で健悟を待っていた時間の方が長かったように思える。健悟一人で帰る分には問題は皆無にしろ、蓮と一緒に帰るにあたり誰かに見られることになれば蓮の平穏が崩れてしまうが故のことだった。
 何処か別な場所で待ち合わせにしようかとメールを送ったのだが、健悟からは道が分からないと言われてしまえば其れまでだった。撮影が終わった途端に段々と去っていく人々の笑顔を見送り、大半が口々に“真嶋健悟”を讃えていたことに純粋に感心していた蓮は、気付いていなかった。健悟自身、蓮の家までの道を完璧に覚えているくらいなのだから、学校周辺の道筋もある程度覚えていたことに。仕事中の休憩時間や気が滅入ったときに、蓮が見てきたと思われる田舎の風景に癒されるためにふらりと出かけていたことは稀ではない。只単に、ここまで来たら一緒に下校したい、という単純な健悟の欲望に、蓮は疑うことすらしなかった。
 そして人が居なくなった頃合を見計らって健悟は現れ、二人は足早に学校を後にした。
 学校から若干遠い場所にある隣街の旅館、蓮の乗ってきた自転車の前に健悟が乗り、蓮は後ろに立ってその肩に掴まった。数名残っていた生徒からも奇跡的に隠れ、誰にも見つかることは無いままに旅館へと向かっていく。
 信号もないコンクリートの道を軽快に走っていく健悟の自転車は、二人乗りだというのにスピードが衰えず、蓮の金色の髪を綺麗に揺らしていた。
 頬を過ぎていく風に乗って感じる匂いは、緑、土、知らぬ家の夕食、日常の中で嗅ぎ慣れたそれと、絶えず雑じるものがもう一つ。
「やーべ、風ちょーキモチーんだけど」
 何度嗅いでも心地良い健悟の香水の香りが鼻腔を擽り、きっと健悟が疲れて居るのだろうと分かっているが、蓮は自然に呟いていた。いつもは前で一人で漕いでいるから、いくら漕いでも気持ち良さよりも疲れが前に来てしまう。
 仕事で疲れている健悟を楽させようと最初は蓮が前に乗ったのだが、健悟は前が良いと頑なで蓮の言うことを聞くことはしなかった。健悟の肩に掛かる二箇所の温もりが、重さを実感するペダルが、蓮が喋るたびに振動を伝えてくれる手が、その全てが嬉しくて疲れを自覚する前に笑みすら浮かんでくる。
「二人乗りなんて久しぶりにした。東京でやったら止められるよこれ」
「キツイだろ結構」
「ぜんぜんよゆー」
「うわうっぜ」
「ちょ、こら!!」
 下り坂に入り、漕ぐことを止めた健悟が息も切らさず余裕そうに言うものだから、蓮はその髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き乱してやった。普段、下り坂すら上りの疲れを表に出す自分は基礎体力からなっていないのだろうかと思いながら。
 鬘は既に外していて、風に揺られ動き回る灰色の髪は本当に綺麗に染まっている。プリンになっていないのは染めたばかりだからなのだろうか、こんなにもまじまじと上から眺めるのは初めてで、ぐしゃぐしゃにするのが勿体無い気さえした。健悟の焦った様子を一頻り楽しむと、蓮はそのさらさらと気持ちの良い髪の毛を梳いて元に戻していく。
「あっぶねぇー……」
「びっくりした?」
「当たり前でしょ、危ないじゃん」
「大丈夫だって、ここ車通んねーし。滅多なことなきゃ事故んねぇよ」
「その甘えが大事故に繋がるんだよな、一般的に」
「っせぇよ」
 顔下にある頭をスパンと叩くと、再び余裕そうに笑われてしまった。
 信号も車もない、コンクリートと畦道を繰り返し通る中で、まさか“真嶋健悟”が此処に居るとは思わないのだろう、人と擦れ違っても小さな会釈と共にあっさりと通り過ぎていったことには酷く驚いた。
 勿論会釈と挨拶を返すその度に、若干の無言の後に二人は「マジで?」と笑い合いながら安堵していた。 
「――でもやっぱいいな」
「え?」
 蓮の家も過ぎ、田畑の中心を通っていると、ふと健悟が呟いた。
 前に居る健悟の顔は蓮からは見えないものの、しみじみと実感するような口調だったことは窺える。
「なにが?」
「んー。なんつーの、こういう道とか誰も居ないから人目も気にすること無いしさ。せいぜい学校抜けるときくらいでしょ、こんなとこで普通にチャリ乗ってるとかマネージャー知ったら殺されるよ、俺。ましてや二人乗りって」
 自嘲気味に笑ったことが揺れた肩から分かり、蓮は目をぱちくりと瞬かせた後に口を開く。
「……まじ?」
「マジマジ、キャラ壊してんじゃねぇってガン切れ。チャリくらい誰だって乗るってね」
「はー……したら何乗ってんの、まさかおめーどこ行くにもタクシーっつってセレブってんじゃ……!」
「誤解すんなって、普通に車っていう発想がなんで出ないかね」
「あ、ああ、車ね」
「今度蓮も乗っけたげんね、俺の自慢の愛車」
「いつになることやら」
「近いうちー」
「へー」
「うーわ、ちょう疑われてる。オレ約束は守る男なのに」
「へー」
「……」
 余りにも気の無い蓮の反応に、絶対信じてないな、と健悟は不審そうに眼を細めた後、わざとハンドルをぐらぐらと揺すって蛇行運転した。
 それに蓮も驚き、先程の自分は棚に上げて「あぶねぇだろバカ!!」と何度も繰り返す。笑いながら健悟の頭を叩けば、余計にハンドルを揺らされることに、蓮は負けじと健悟の肩をがくがくと揺らしてやった。
 うぜぇと言い合う夜七時、すっかり陽も暮れた中、健悟にとっては外だというのに大声で笑いながら過ごすことが本当に久しぶりで、健悟と蓮はふたり、笑顔に溢れながら風を味方に付けていた。



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