メールには帰って良いと書いてあったが、蓮は武人ひとりを先に帰した。勿論帰り道を独りで歩く事が嫌いな蓮だからこそ、残った選択肢は一つだけ。
「どーれ、見に行くか」
 健悟と帰る。蓮に残っていたのは、その選択肢のみだった。
 見学自由になっている体育館、この暑い最中に汗水垂らして頑張っているだろう健悟を見に行こうと、蓮は初めて自らの意思で脚を体育館へと向かわせている。
 羽生家で健悟の演技を見た今だからこそ、折角の機会にという大多数の意見に漸く納得がいったのだ。
 俗趣味な自分を自覚し呆れた昨日、それでも見たいものは見たいのだと、撮影を知った初日からは想像も出来ないことを思っていた。
「……相変わらずスゲェ人」
 そうして体育館に着けば、狭い入り口を一生懸命に覗いていたのは規定の制服とジャージだけではなかった。制服姿の中学生や私服の子供は勿論、エプロンを腰に巻いたままの主婦やツナギを着た御爺さんまで老若男女問わず集まっている。
 一度目に見に来た時は最前の場所だったことが奇跡かように、人がひしめき合ってそれどころではない。
 仕方なく蓮はなるべく小さな女の子の後ろを陣取り、辛うじて中が見える位置に居た。そこで漸く、あのとき武人は苦労して場所を取ってくれたのかと知り、もう少し優しくしてあげれば良かったと滅多に無い後悔に苛まれた。
 体育館内を考慮してか黄色い声は聞こえず、皆が見惚れるように静かに中を見つめている。
 沢山の機材の中心に見えるスーツ姿の男が何か喋っているらしいが、蓮にとってはその声は全て蝉の音に掻き消されてしまっていた。それでも、体育館内の厳粛な雰囲気だけは直接的に伝わってくる。ただ立って居るだけだと云うのに、空気に中てられて左腕に鳥肌が走ったほどだった。
 何を話しているかは分からないが、健悟はまるで別人のようにしゃんと背筋を伸ばしていて、纏うオーラに驚きを隠せない。
 大多数居る蓮の居場所と、限られた人しか居ない健悟の居場所。その差に気後れしそうになったが、それ以上に、健悟を自慢してやりたいような、誇らしいような、そんな気持ちで一杯だった。遠くからでも分かる健悟のオーラに誰しもが惹かれていることがわかる。それが凄く嬉しくて、自分のことでもないのに蓮は心が温かくなった。
 そんな気持ちを胸に押し込めて堪えていると、突然体育館の中がわっと騒がしくなった。何か緊急事態でもあったのかと懸念したが、如何やらそうではないらしい。
 スタッフらしき服を来た男性が健悟に駆け寄っていて、健悟も近くにあった椅子へと座っている。一度取り終わって休憩でもするのだろうか。
 仕組みが読めない体育館内だったが、とりあえずは緊迫した雰囲気が取り除かれたことによって、それと同時に蓮の周りに居たギャラリーも騒ぎ出していく。よっぽど我慢していたのか、まるで発狂するような若い声だったが、蓮は煩いと眉を顰めるだけでその場を離れようとはしなかった。
 あまりにも“真嶋健悟”“真嶋健悟”と同じ言葉が何度も聞こえるものだから、ふと、まるで此処に居る人が全員“真嶋健悟”目当てなのではないかという疑問に襲われてしまうほどだった。
 ……いや、まさかな、ちげぇよな、他の女優とかもいるだろうしさぁ、知らんけど。
 独り苦笑いをして周りに耳を預けてみるも、やはり聞こえる声は“真嶋健悟”についてばかりで、圧倒的に格好良いと永遠と聞かされるだけに終わってしまった。
 疑った俺がバカでしたよ、はいはいはいはいすみませんでしたっ。余りの健悟の人気にケッと鼻を鳴らすも、その声を拾う者は勿論居らず、誰もが体育館内に想いを馳せている。
 しかし、蓮が鼻を鳴らし、体育館から目を逸らしたその瞬間、今まで以上に周りの女子達が騒ぎ出し、血管が切れて死ぬのではないかとも言える位の声をあげていた。
「っ、!」
 突然のことに耳を塞ぐことを忘れた蓮は、急いで手を両耳へと添えた。
 それでも止まない声の主たちは一様に体育館内を向いている。便乗してその奥を覗けば、如何やら健悟が此方のギャラリーに向かって手を振っているようだった。
 相変わらず笑みは見せないものの、小さく振られた掌に、流石芸能人はサービス旺盛なことで、と蓮は小さく苦笑するしかない。
 一挙手一投足で周りを揺さぶる健悟を思い出し、難儀なものだと小さく呟いたのだが、しかし、次の瞬間涙混じりに聞こえた声に息が止まってしまった。
「ええっ、見た!? 見たいまっ、手ぇ振ってたよね? ね?」
「手振ってくれたの初めてじゃない!?」
「初めてだよ! 毎日来てるけど初めて手振ってくれた!」
「ね! 毎日コッチ見てはくれるけど手は、手は初めてだよっっ! うわああ〜!」
「カッコイイ!! もうやだちょうカッコイイよぉ〜!!」
 ……初めて?
 確かに聞こえた声に蓮は首を傾げる。芸能人だからファンサービスが良いのかと思いきや、そうではなかったらしい。
 ただの気まぐれでこんなにも人を騒がせる健悟は、もう迷惑の域にゆうに達しているだろうと溜息を吐いた瞬間、尻ポケットに放置していた携帯が鳴った。
 武人だろうかと思いながらバイブを止めれば表示された名前は一つの絵文字、ハートマークだったことに酷く驚いた。
 驚嘆を顔に出しながら体育館内を覗けば、健悟は椅子に座っているが、確かにその手中には携帯電話を持っている。
 きっと自分が此処に居ることすら分かっていない健悟に、タイミングが良すぎると小さく笑いながらそのメールを開いた。
 何時ごろに終わる、などの連絡を寄越してくれたのだろうかと期待しながら見る、と。
“ばか”
「……は?」
 そこに書かれているのはたったの二文字、絵文字も顔文字も何もない、ただの二文字だけだった。
 しかし蓮には馬鹿と罵られる心当たりが全くなく、送る相手を間違っているのではないかと疑うのは当然のことだった。
『おいこら、相手間違ってんぞ』
 勿論思ったままに、この近距離でメールを送信する。
 そして健悟の姿を人ごみの隙間から覗けば、健悟は蓮からのメールを一読してから返信を打っているようだった。
 その証拠に、健悟が携帯から眼を離した途端に蓮の携帯が震えた。
 しかし、ごめんという謝罪のメールかと思いきや、開いた受信ボックスに見えたのは、如何やら其れとは全くもって程遠いものだった。



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