「シー、シーッ!」
「、……?」
 口内で作られた空気音、精一杯に音を無くした掠れたそれは、まるで公共の場で暴れる子供に言って聞かせるような焦りが感じられ、思わず拍子抜けしてしまう。
 今焦るべきは男では無く、自分の筈だと蓮の頭が混乱する。静かにさせるならば、脅すなりなんなりしたほうが効率が良いだろうに。状況が飲み込めず、相手が何を考えているのか分からない。
 蓮は衝動のまま、眉間に皺を寄せながらも、ゆっくりと、出来る限り首を後ろに廻す。すると、思ったよりも近い位置に端整な顔があり、相手も此方に気付いてくれた。てっきり何か企み極悪顔でもしているのだろうと先入観を抱いていたのだが、実際に見えた表情は困惑雑じりで申し訳なさそうに苦笑を浮かべていた。瞳には罪悪感が窺え、それは蓮にとって想像もしていない表情だった。
「悪いけど、もう少し待って。頼むから」
 間近で発された男の声は思っていたよりも低く、深みのある声だった。細身な外見からは想像出来ない綺麗な声。掠れたそれで、声を潜めながらも懇願するように耳元で囁かれ、鳥肌が立つ。
 吹きかかる息に対し、迫る振動に身を委ね肩を震わせながら、反射的に頷いてしまった。
 すると同時に、ほうっと、安心したかのような溜息が後ろから聞こえた。
 其の後左手の拘束も緩まり、口元に当てられた手も抑えつけるのではなく気休め程度に被さるだけになった。
 先程聞こえた男の声音からしても、傷つけられる心配は無さそうで、本当に困っているのだろうと云う事だけは伝わった為に、何処か安心してしまう。
 寧ろ、自分が勘違いして事態を悪化させていたのだと気付くと少し恥ずかしくなる。だから、とりあえずは蓮も声を潜め、流れに身を任せた。

 どの位待てば良いのか分からぬ儘、蓮は暫く動けずに居たが、暫くすると、先程迄は直ぐ近くに居たクラスメートの声も遠退き、再び煩い蝉の音だけが辺りを包むようになっていた。
「――もういっかな」
 呟きと共に、男は振り返りトラクターの間から道路側を覗いている。なにが良くてなにが悪いのかなど蓮には到底区別がつかないが、男からの拘束は完全に無くなったので深く言及はしなかった。
「悪かった、……大丈夫?」
 男が、心底安心した様子は表情で伝わってくる。それは、今まで蓮を抑えつけていた人物と同一人物だとは思えないほどに、柔らかい笑みだった。
 素直に謝られた事に吃驚すると同時に、蓮自身も勝手に勘違いしてしまっていた為に狼狽してしまう。
 この人は本当に只の客人で、自分が勘違いしていただけなんじゃないのか。
 過ちに気付き朱く染まりそうな頬を引き連れ、自分こそ謝るべきだろうと口を開く。しかし、丁度風下に居る蓮に、夏風に乗って人工的な匂いが運ばれて来た所為で、謝罪とは全く関係のない科白が勝手に飛び出してしまった。
「良い匂い……」
 無意識の内に言葉を発していたことに、一拍置いてから気付き吃驚した。全く意識していなかった為に、自分でも何を言っているのかと図らずしも赤面してしまう。
「……や、なんでもない、ごめんなさいなんでもないっス」
 顔の前で手を振り誤魔化そうとするも、意識が持っていかれていることは明白である。未だ嘗て嗅いだ事のない匂いは、猶も蓮の鼻腔を掠め続けていた。
「……香水のことかな。これ?」
 落ち着きを忘れそわそわと匂いの根源を探っているような態度も男は気にする事無く、夏の所為かこんがりと日焼けしている腕を蓮へと差し出した。
 其の行動の意味が分からずに戸惑う蓮だったが、手首が蓮の鼻に近付く事により匂いが強まった所為で、その意味を察する事が出来た。衝動に任せ、スンと鼻を鳴らすと、微かに香っていた匂いが強まる。初めて嗅いだ人工的な芳香は、縺れていた蓮の頭中をゆっくりと緩和してくれた。
「……あ、これだ。スゲェいいにおい……」
 心から癒された所為か、自然と頬は緩まってしまう。踊る瞳と和らいだ表情は其の儘に、腕から視線を戻し、男を見上げた。
「ん、ありがとう」
 すると、蓮と同じ位、否、蓮以上に嬉しそうな笑みが其処には広がっていた。目を細め、口元が緩やかに曲線を描く、柔軟な笑み。
 “綺麗”。漢字にしてみればたった2文字の其れだが、此れほどまでにしっくり来る人物を見た事がない、と、蓮は思った。
 蕩けるような優しい瞳を向けられ、思考回路が止まってしまったようだ。笑いかけられただけで返答に困るという体験はしたことが無かったために、解除の方法がわからない。
 夏風は止み、しつこい位の蝉の音だけが弾丸のように迫っている。普段ならば不快でしか無い状況だというのに、此の時ばかりは蓮の胸中に正反対の感情が込み上げていた。
 そして、根拠の無い自信が湧き溢れ、まさか、と揣摩臆測する。
 男を泥棒だと疑念する心は疾うに捨てているが、結局の処何者なのかも分かっていない。しかし、其の整った顔と柔軟な笑みを直視してしまうと、強ち予想がハズレでは無い様な気になり過度な期待を寄せてしまう。
 蓮は、先程とは違う意味で手に汗を握り、一抹の緊張を抱えながらも、再び口を開いた。
「あの……見ない顔だけど、ここいらの人ですか?」
 まさかそれはないだろう。そう思っていても、一応は問うてみる。
「いや、全然。この辺の事とか全く分かんないから困ってて」
 苦笑しながら地元民を当然の如く否定した男の反応を見て、蓮の期待が更に膨らむ。
「――じゃあ、やっぱり東京の人?」
 まるで何処かの小動物のように、活き活きと答えを求めると、男は一瞬の愕きを見せた後にはっきりと頷いた。
「当たり、よく分かったね」
「……」
 そして、蓮の問いに肯定を見せた途端、蓮は喜びを噛み締めるように唇を結び、眉を下げた。
 傍から見てもあからさまに変わった其の態度は、何かに感動している様にも見える。込み上げる嬉しさを必死に抑え、混乱する頭の中、場を取繕うかの様に小さく呟く。
「……すんげえ綺麗だから、ぜってぇそうだと思ったんだ」
 自分の予想は当たっていた、嬉しい方向に。
 そう改めて自覚した途端、蓮は胸が高鳴って仕方がなかった。聞きたい事が山ほど有る。知りたい事が山ほど有る。
「ねぇ、なんでこんな処に居たんすか? 兄ちゃんの友達? 姉ちゃん?」
「……あー、兄ちゃんっていうか――」
 浮き浮きと質問を投げ掛ける蓮に対し、男の表情には何処か翳りが見える。続く言葉は否定だったか肯定だったか、男が最後まで言い切る事無く、言葉は遮られた。
 男の、腹の音によって。
「……」
「……」
 蝉の音に紛れれども、掻き消される事は無かった其れの所為で会話は途切れてしまった。一瞬生まれた静寂の後、男は照れたように苦笑いを浮かべる。男前の苦笑もやはり男前には変わらず、蓮は暢気に感心していた。気まずそうな笑みに因って恥辱感は存分に伝わった為、蓮は家を一見し、短考の後に口を開いた。
「上がりますか?」
 親指で家を差せば、男は一度指の方角に従った後、意外そうな顔をしながらも表情を和らげた。
「いいの?」
 聞くも何も、誰かに用があって来たんじゃないのか、との疑問が一瞬だけ蓮の頭を掠めたが、些細な其れよりは、綺麗な顔をした東京人というレッテルにいともあっさりと好奇心が負けてしまった。
「おれ料理は無理なんですけど、冷蔵庫になんかしらあるだろうから」
「ああ、じゃあお言葉に甘えて」
 柔らかく微笑む男に、蓮も笑みを送り返し、元来た道へと踵を返す。必要の無くなくなってしまった自転車の鍵をポケットに仕舞い、少しだけ後ろを歩き着いてくる男を見て、思った。
 野菜に囲まれている坂を凄い凄いと褒めながら登る彼の、名前すら知らない、と。
 名も知らぬ人物に抱き込まれ、尚且つ其の儘家に招き入れようとしている。こんなに不思議な事は滅多に起こる事ではない。
 少なくとも、蓮が生きてきた17年間で初めて起こった出来事だった。

 つい先程、学校で、蓮は武人に対し、単なる暇潰しに俺を巻き込むのは辞めて欲しいと溜息を吐いていた。しかし、今では巻き込んでいるのは自分だと自覚しながらも笑みを浮かべている。
 退屈溢れる単純な日常の中にするりと入ってきた、たったひとつの非日常。
 無邪気な笑みを横目に、何時でも行けるコンビニなんかより、こっちの方が数段面白そうだと口角を上げ、武人へのドタキャンメールを送信した。
 とりあえず、名前を聞く処から始めようと、鍵が掛かっていない扉を優しく開いてみる。
 これが、小さな町に巻き起こる巨大な旋風の始まりだと、知らぬ儘。



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あきゅろす。
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