「ただいまー……」
 蓮は、誰に向けて発しているかも分からない小さな声を出して家の扉に手を掛けた。
 鍵が掛かっていないことは言わずもがなだが、襖の向こうからテレビの音が聞こえてくることに驚きを隠せない。それは、テレビを滅多に利用しない蓮の家には酷く似つかわしくない音だからで、微かな疑問を抱きながら中に入っていく。
 蓮は、睦が珍しくテレビでも見ているのかと、そう思いながら襖を開いたのだが。
「…………」
 そこに睦の姿は無く、襖に手を掛けたまま蓮の動きが止まってしまった。
「オカエリー」
「……な、んでいんの……?」
「カギあいてたから」
「……不法侵入だ」
 れっきとした犯罪行為だと云うのに全く物怖じしない健悟を見れば、蓮からは溜息しか出なかった。
 昨日鍵を開けていたときには信じられないと言っていたというのに、まさかその本人が侵入してくるとは予想外にも程がある。
 どうやって家入ったのではなく何故家に居るのかを聞きたかったのだが、悪びれない様子にすっかり萎えてしまった。
 しかし健悟が居ないということは、体育館で撮影もやっていないことになる。だったら武人が居なくなることは無かったんじゃないかと、背負っていたスクールバッグを乱暴に畳の上へと投げ出せば、お茶を飲みながらすっかり寛いでいた健悟が首を傾げてきた。
「? 機嫌わりーね、どしたの?」
「、べつに」
 まさか、武人と帰れなかった所為で健悟と自分を比べて卑屈になっていたとも言えず、なんとなく健悟から目線を逸らしてしまう。
「あ、ちょっと待ってね」
 すると健悟は、疑問を抱きながらもその場を立ち、居間を出て行ってしまった。
 蓮の元から、だんだんと去って行く背中。
 昨日から既に見慣れたものになっていたそれが、ふと、誰もが知っている“芸能人”らしいだと思い出し不思議な気分に襲われる。
 蓮にとっては昨日初めて会った“東京人”であり、姿を見たからといって涙も鼻血も溢れるわけがない。しかし、実際放課後に、生徒達は楽しみにしながら体育館に行っていた。その渦中之人が目の前に居るということは物凄いことなのではないかと思案すればするほど、眉間に皺が集まっていくのが分かった。
(……いま此処に“真嶋健悟”が居るって知られたらすぐにでも殺されんじゃねぇかな……)
 今朝の女子生徒の底知れぬ情熱を思い出し、身体に鳥肌が走る。“真嶋健悟”を全く知らない今、未だ実感の沸かない出来事なだけに、勘弁してくれよ、と自嘲的な笑いを漏らしながら。
 「東京では道を歩けば芸能人にぶつかる」と噂していたクラスメイトの言葉を思い出し、田舎でも充分に該当したと全く一貫性の無い主張に頷きながら、このことを口外することは絶対に止めようと心に誓った。
「はい」
「……」
 そうして蓮が頭を抱えていると、ふと、何かが目の前に差し出された。
「いらない?」
「……」
 顔を上げて見れば、健悟がアイスバーを2本持っていて、それを蓮の前に翳している。
 数分自転車を漕がなければ行けないコンビニに売っているアイス。蓮は、武人と買いに行こうと思っていたそれをあっさり見せ付けられたことに驚いて、きょとんとした顔で言葉を紡いだ。
「……買ってきたの?」
「んーん、学校で箱で貰ったから持って帰ってきた」
「帰ってきたって表現がまずおかしいんだけど」
「あ、ほら、蓮も昨日やってたじゃん。オスソワケ」
「シカトか」
「あれやってみたかったんだよねー、おれも」
「…………ぷっ」
 へへっ、と文字通り笑った健悟。それだけの人気があると云うのに、お裾分けなんかをやってみたいと言うとは思わなかった。
 余りにも庶民的なことを言って普通に笑うから、釣られて蓮まで笑ってしまった。
“健悟だったら、そこいら辺にいる誰かが数十本ものアイスを届けてくれるに違いない。”
 ふと、朝自分が思っていた仮定を思い出す。箱で持ち帰る程度には、本当に多くもの差し入れを貰っていたらしい健悟。 
 今この家に健悟が居るのも、こうして笑っているのも、全て予想外だけれど、ある意味予想通りでなんだか微笑ましくなってくる。
「あー、おもしれーねあんた」
「?」
 何を言われたか分からないと当然の反応を返す健悟から、右手にある白いアイスバーを勝手に拝借する。
「バニラでいいの?」
「ん、健悟のなに」
「いちごー」
「いちご好きなん?」
「ん、すき」
 そう言って嬉しそうにアイスの袋を破く健悟を見て、蓮は率直に、惜しいことをしたな、と思った。
「健悟さぁ、来んのもう少し早かったら苺食い放題だったのに」
「マジで!?」
「うち苺の出荷手伝うかわりに食い放題」
「ちょ、すげ、それ苺狩りっつーんじゃねぇの?」
「あ、そう、それ」
「……スゲェ……!」
「……」
 勿体無いと平然と伝えれば、健悟は眼を丸くして、予想以上に驚いた反応をくれた。
 毎年恒例となっている苺の出荷など蓮の地元では当然のことであり、普段付き合っている友達からは決して得ることのできない反応。
「……ふはっ、ちょう新鮮なんだけど」
 また、余りにも予想外の反応をするから。
 甘いバニラはどんどん口内に拡がっていくが、やっぱり自分には“真嶋健悟”の想像なんて全く拡がらないと、更に笑えてしまった。



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