坦々とした日常が少しだけ変化したのは、翌日、帰りのホームルームのときだった。
 教室中から、突如、わっと黄色い歓声が上がる。そして自分の教室が煩くなったと思えば隣のクラスからも悲鳴が聞こえ、廊下一帯がざわめいていることに気付いた。霞む視界でグラウンドを眺めていた蓮にはクラス中が椅子から総立ちしている現状がいまいち掴めず、眉を上げながら左右を見渡してしまった。悠然と椅子に座っているのは宗像くらいで、教師ですら諦めたようにその場を宥めていたからだ。
 つまり、と話しだした担任からは端的な結論のみが述べられる。
 明日の午後の授業が休止となり、学校で撮影をしていた映画の上映会が体育館で行われるということだ。今週の総合学習の時間と交換な、と呼び掛ける担任の声は誰にも届いておらず、所詮は高校生、女子は“真嶋健悟”の映画がいち早く見れることに、男子は授業が休止になるということに嬉々として食いついているようだった。
 日常が変化した理由は例に漏れず彼の所為でしかなく、彼以外のせいでは最早やって来ない非日常を怨んでしまいたい。胸が破れそうな位に煩い心臓を落ち着かせるかのように、蓮は俯きながら深呼吸をした。
 肩を大きく上下すれば段々と落ち着きを取り戻し、徐々に周りの騒音も耳に入ってくる。
「居たよねー」
 懐かしむ声が“真嶋健悟”の幻想を見ており、既に過去の人として思い出を振り返っているようだった。
 周りにはすっかり過去の人になっているのに、なんで自分だけ、俺にだけは、過去として通り過ぎてくれないんだろう。
「今まで一緒に居れたなんて夢みたいだよねー」
「あわよくば友達でもいいからなりたかったのにー!」
「バーカ、所詮芸能人なんか芸能人同士でくっつくんだって、現地妻なんかに興味はねぇーの」
「むかつくー!」
 笑いが起きる一帯に、一番傷付いたのは言われた女の子ではなく蓮だった。
 芸能人は芸能人同士。そんなことはないと声を大にして言ってやりたいくらいだった。
 現地妻どころか十年前から何らかの関係があった本妻は、近いうちに家を出て東京にでも引越しをするんだろうか。こんな場所に住んでたんじゃ、想いなんて、届くはずもない。
「…………」

 ――想いが、届かない。

 自分で思った一言が引っかかって、蓮は暫し考える。
 以前にもふと思ったことだ、自分が十七年間住んできた狭いこの地は健悟の人生にとっては只の通過点でしかなくて、たかが「1」だったとしても、自分にとって此処は人生の全てで「100」だということ。
 ちっぽけな世界しか知らない自分は健悟のことしか考えていないかもしれないけれど、大きな世界で、日本中を相手にする男の頭の中に、自分なんかがいつまで残る事が出来るんだろうか。せいぜい三日、下手すればもう忘れられているのかもしれない。
 やっぱり、此方に居る間だけの暇潰しだったんだろうか。
 その証拠に、携帯にはなんの連絡も入ってない。此方に居たときはしつこい位に鳴ってたメロディは、もう聞くことはないのだろう。
 日本中で自分と健悟だけが、二人だけが知っていたあの曲も、明日の映画では解禁となるに違いない。暫くテレビを見ていないだけで、もしかしたらもう流れているのかもしれない。
 共通点がどんどんと消えて行くというのに、想いだけは反比例するように募っていく現状に、蓮は大きく溜息を吐いた。


* * *


 悶々とした靄を最早飼い慣らしていると言っても良いその日の夕方、蓮は更に胸中が霧がかる思いを体験する事となった。
 芸能人という職業がいかに卑怯なものかということを、存分に知ることとなったからだ。
「――なんのつもり?」
 ノックもなしに部屋に入ってきた利佳を睨みながら蓮は問う。
「別に。自分が壊してたモン直しただけでしょうが」
 けれども利佳は蓮の様子に構うことなくテレビを弄り続けていて、ああでもないこうでもないと試行錯誤を続けているようだった。
「何年経ったと思ってんだよ。今更だっつの」
「素直に感謝すれば良いのに」
「てめーが壊したんだろうが」
 数年前、喧嘩をしたわけでもないというのに理不尽にテレビのアンテナを壊されて号泣したことがある。
 母に泣き付いても兄に泣き付いても困った顔で利佳を見るだけで、咎めようとすらしなかったからだ。味方が一人も居ない状況に、あの時も安易に家を飛び出したけれど、考えてみれば人生で初めての家出は利佳のせいだったことを思い出した。
 以来、蓮の部屋のテレビ画面は白黒の砂嵐しか映らず音声も砂嵐特有の雑音のみが流されていた。成長してからはアンテナ部分を補修すれば直ると知恵はついたものの、ゲームをするときはチャンネルを変えて使用するためテレビがないからといって特にこれといった問題は生じず、面倒臭さに身を委ねてそのままにしておいたのだ。
 今更になって何だというのか、数年ぶりに映像を映したテレビを残してあっさりと部屋を出て行った利佳の背を、訝しみながら蓮は見送った。
 久しぶりにつけたテレビには、ニュース、釣り番組、バラエティ。パチパチとチャンネルを回しても暫く見ていなかっただけに誰が誰なのか分からない。眉目秀麗な男女がクイズに答えていたり恥を捨てた芸人が騒いでいたり、ただ煩いだけのそれをぼうっと眺めているだけだった。
 いつもならば咎めるはずの煩さも久しぶりにテレビを見たことで沈静し、しばらくは惰性に任せてバラエティを視界に入れていた。
 しかし、ある一瞬を境に蓮は身体を起こし、自分でも考えるよりも先に本能的に主電源を切っていた。リモコンがあることも忘れて、思わずテレビに駆け寄り根本から断っていた。
「…………っ!」
 一瞬でも眼に入ってしまった人物に大きなダメージを与えられる。塞がりつつあった瘡蓋を剥がされてはグチグチと肉を抉られるかように、えげつない痛みが身体を裂いた。
 テレビに映っていたのは、先月までは此処で並んで一緒に画面を眺めていた人物だ。一緒にゲームをして、笑っていた。眼鏡をかけて、たかがゲームに本気になっていた子供のような大人。今一番、忘れたい相手。
 ――真嶋健悟。
 たかが一瞬だというのに頭に焼き付き離れない映像の中で彼は笑っていて、自身の映画を宣伝するクリップボードを持っていた。
 そこに書いてある文字までは読み取る事はできなかったけれど、彼であって彼ではない、営業用の薄い笑いが離れない。気取った笑みすら画となり世間を操作している彼が頭に住み付いてしまって、居心地が良いとでも言うように離れる気配は見られなかった。顔までは見えなかったけれど横に立っていた綺麗な人はきっと映画の相手役で、温泉で一緒に練習をしたキスの相手なんだろう。
「っ、」
 たった一瞬だけなのにいきなり怒涛に溢れる思い出が処理しきれない。
 無くしてしまったことの重要さに気付かされて涙が出てしまいそうだった。そんなこと、する必要はない。思い出に浸る必要も、思い出す必要もない。忘れる事が一番、それだけなんだから。
 一気に心拍数が増えた身体をテレビから離して、ベッドから乱暴に携帯電話を拾い上げる。
 着信履歴で一番上の番号を呼び出している静かな時間には、自分の鼓動が耳に響きすぎて破裂してしまいそうだと本気で思った。
「武人!」

 ――いま、ひとりで、いたくない。

「っくりしたー……声大きいよ。どうした?」
「おまえいま家いる?」
「いるよ」
「どっか行きたい、行こう」
「どっかってあんたね。あー……いいや、じゃとりあえずコンビニいこ。ノート切れてんだ」
「わーった、いまいく」
 枕元にあったリモコンを八つ当たり混じりに投げ捨てて、元凶である利佳の部屋の扉も盛大に蹴り付けてから、全速力で家を飛び出した。



3/60ページ

[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!