鍋に入れた水は、熱すれば沸騰する。世の理として、それはぶくぶくと泡を生じさせ目も当てられないほどに激しく鍋の中で騒ぎ立てるものだ。
 そして一旦火を止めれば泡も枯れてゆっくりと落ち着きを取り戻していく。蓮の周りも同じくして、まるで一瞬の熱から冷めてしまったかのようにすっかりと衝動の波が治まりつつあるのだった。



 大きな台風の目が小さな田舎から過ぎ去ったのは、二週間前の出来事だった。
 始業式が始まるころには学校中が映画の話題で持ちきりとなり、教師がいくら注意をしても話が止まらないとばかりに興奮冷めやらぬ状態が続いていた。
 映画撮影への使用頻度の高かった空き教室に移動しては騒ぎ、体育の授業で体育館に行っては騒ぎ、エキストラ出演した思い出話に花を咲かせては騒ぎ、極めつけには真嶋健悟が表紙を飾る女性誌を何冊も学校に持ち込んでは黄色い声をあげていた。それは蓮のクラスに限ったことではなく、もちろん学校単位で男女問わず幾度も話されていた出来事だった。
 しかし何の変哲もない通常授業を毎日繰り返し、土日を二度挟んだことによって、休み明けの実力テストが終わったころには学校中が余裕と共にその名を忘れ去り騒動は鎮火しつつあるようだった。最も彼が表紙を飾る雑誌が発売したとなれば話は別だが、それでも撮影中のように毎日毎日彼の名を聞く機会は減ってきた。
 台風が襲来する前の落ち着きを段々と取り戻して行き、変わったことといえば十月にある文化祭に向けて少しずつ話し合いが進行し始めたことくらいだ。過去のこととして、幸運な思い出として、誰しもの心の中で治まりを見せてきた。
 けれども一人だけ、ふとした瞬間に浮かない顔をしたりぼうっと呆けることが増えてきた人物が居る。
 “真嶋健悟”の雑誌を囲った旬な話題に率先的に混ざることはなく、夏休みを終えたことでどこか落ち着いてしまったか、沈んでしまった人物だ。旧友たちは長い夏休みに遊び呆けていた彼を知っているからこそ疲れが出たのではと訝しんでいたが、そうではない、彼の顔に浮かぶものは所詮後悔と云う二文字のみで、払拭しきれていない翳を飼っていた。





『明日、健悟が挨拶に来るよ』

 それは、毎日をふらふらと遊び歩いていた蓮に対して電話越しに届いた言葉だった。
 言葉煩い利佳からの着信には一向に出ない一方で、用件がある時のみ掛けて来る母親に対しては電話を繋ぐのみではなく不在の場合にも電話を折り返していた。
 その日も羽生の家で四人が集まりゲームをしていた怠惰な夏休み、偶に入る睦からの電話で水が流れるかのようにさらりと告げられた。
 帰って来いと直接促されることはなかったが、時間を指定されたということはそういうことだったのだろう。最後を笑って迎えるために逃げ回っていたのに、結局は気持ちの消去が間に合わなかった。それでも逢わなければ一生後悔すると確信して、蓮は一生分の勇気を振り絞って家路に着いたのだった。

『またね』

 しかし、交わされた最後の言葉はそんな短い三文字だった。
 あっけないものだ。
 当たり障りのないそれが遠い未来に実現されるはずもないということを知っているからこそ、嘘吐きと嫌味のひとつも言ってしまいたくなったことは記憶に新しい。
 大好きな大きな掌で髪の毛をぐしゃぐしゃにされたけれど、このときばかりは怒る気にすらなれなかった。髪の毛よりもぐしゃぐしゃになってしまいそうな自分の顔を必死で堪えて、ぎくしゃくした笑顔で手を振ったからだ。『ばいばい』とは言わずに、同じ言葉を返した。二度と実現される事のない言葉をくだらないと詰りながらも、別れの台詞よりは良いと、今にも蹲ってしまいそうな足を必死に堪えながら。

 けれども、狭いと思っていた部屋が一転し広いと感じることになっても、実感が沸くことはなかった。
 スーツが消えても、香水の匂いが消えても、出しっぱなしのコントローラーが一つになっても、いつまで経っても同じ位置に自分が居る気がして嫌になる。それでも、気持ちを整理する方法が分からない。こんな経験は初めてで、どうしたら良いのかが全く分からなかった。ぽかんと何かが消えた虚無感の原因ははっきりしているのに、処方する方法が一切浮かんでこなかった。
 しかし無常にも夏休みは明け、新学期となり数えきれない量の人物の口から懐かしい名前が出ることで、嫌でも事実を認めるほかなかった。
 もうここには健悟が居ないと、その事実が段々と足元から這い迫って来るようだった。
 新学期の教室内では、殆どのクラスメートが体育館で行われた挨拶会に参加したらしく、間近で見た本物の彼の感想を引っ切りなしに言い合っていた。二度と会えない彼の賞賛を休み時間ごとに繰り返しては、十分後に座って授業を受ける。変わらないそれを何度繰り返したか分からない。
 一日、二日、三日、幾日たっても変わらないままの気持ちを持て余しながらも、段々と分かってきたことがある。
 健悟は此処にはもう居ないと、それだけではなく、もう本当に逢うことすらできないんだと、ようやく実感が湧いてきた。

 数ヶ月前には興味すらなかった芸能人に、今更誰よりも逢いたいだなんて思ったところで、そう思う人間が全国に何人居るのだろうか。
 所詮芸能人に逢おうと思うほうが間違っていた、そう割り切ろうと思っても、割り切れないからこそ今の場所に自分が立っていることは言い逃れのない事実だった。

 教室で黄色い声を上げる彼女たちを見ては繰り返し思うことがある。健悟を好きだと知って、利佳との現場を見て、確かめる術もなく逃げ続けた自分への後悔だ。
 今こうして一生逢えなくなるんだったら、あのときにずっと一緒にいればよかった。嫌でも離れることになるのだから、たくさんの事項に忘れたふりをしてでももっと一緒に居ればよかった。
 そう後悔しては、でも一緒に居たら絶対言っていた、と顔を覆うのは何度目のことだろうか。
 どれほど後悔したところで、今は何も変わらない。
 澄み切った空を映す教室の窓に映る自分は、その背景とは正反対な鬱々とした表情を飼っている。後悔しないと思っていた最善策だったはずなのに、結局は変わらぬ後悔に苛まれている自分に苛々が止まない。それを打開する術も無く、今までと変わらないどころか、夏を迎える以前よりも遥かに虚しい気持ちのまま毎日を過ごしているような気がした。

 ――健悟はもう居ないのだから、どうすることもできない。

 そう自分に言い聞かせることが最大の譲歩に思えて、そうすることしかできない気がして、指輪のついたままである右手をぎゅっと握り締める。
 気付けばふとした時に右手を触ることが癖になっていて、誰にも見られていないだろうそれすら忘れるかのように、両掌を払い誤魔化した。掌が重なりパンパンと音が震えた瞬間、もうひとつ、頭上から同じ音がした。
「れーんちゃんっ」
「いって!」
 容赦ない平手音は両耳の上に降って来て、こめかみを挟む両手を急いで退かす。けれども羽生はそのまま離れることなく、留めたままの手を髪へとずらすことによって蓮の手から逃げていた。
「あっれ。傷んでるー? っていうかプリンになってきてなぁーいー?」
「見えねーよっ」
 髪の根元を撫でられて、肌を少しだけ粟立てながら羽生の手を振り払う。するとそのまま羽生の手は蓮の両肩に落ち、だらんと体重を掛けながら寄り掛かってきた。
「おまえマジ重いっつーの」
「染めたげよっかぁ?」
「そのうちな、っつかおまえ、もー、マジで……」
 ぐらぐらと揺れる羽生につられて蓮の身体も揺らされて、前後に動くせいで脳にまでぐらぐらと衝撃が走っている気がする。 
「れんちゃんまたこの色にすんのぉ? そろそろボロッボロになっちゃうよー、手触りいーのにもったいなぁーい」
「…………」
 さらさらと撫でられる感触に何度目になるか分からないブリーチを思い出す。金髪にしようと思ったのは随分前で余りにもくだらないことが切っ掛けだったのに、今ではこの色以外に染めようとは思わなかった。
 健悟と初めて出会ったとき、陽に照らされたときに透けてしまうかのような銀色に近い髪の毛が本当に綺麗で、あのときだけだ、自分もいつか同じ色に染めてみたいと思うほど、密かに惹かれた経験は。地毛と聞いて思わず納得してしまった髪艶は、流石は芸能人というべきか髪の一本一本まで滑らかで、同じ人間なのにどうしてここまで違うのだろうと何度も凝視してしまったことは記憶に新しい。

 ――誌面では見れないあの色は、これから二度と拝むことはできないのかもしれないけれど。

「――……」
「蓮ちゃん?」
「、……や、なんでもない。あー、うん、そのうちやるわ」
 右頬から覗き込むようにやってきた羽生の顔を左手で押しのけて、ようやくハッとする。いつの間にか思考が飛んでいるのは最近多くなって来た出来事で、当然宜しいとは言えないものだ。
 訝しむ視線を感じながらガシガシと髪を掻けば放置してばかりだったカラーリングのせいで確かに少しだけ軋んでいて、利佳お気に入りのヘアケア用品をこっそり拝借しようと誓った。
「……へぇんなのー。蓮ちゃんいつもだったらプリンなんかなんないくらいソッコー気付いて染めてんじゃんー。いつでも根元までマッキンキンじゃんー」
「いーの、俺も色々あんの」
 未だに体重を乗せてくる羽生を無視して机から現代文の教科書を取り出せば、つんとした蓮の態度が気に入らなかったのか羽生は唇を尖らせながら抗議した。
「……ふーーーん!!!」
「っだよ拗ねんならあっちでやれっつの!!」
 羽生は蓮の頭をがっしりと掴んだ後にがしゃがしゃと髪の毛を掻き回し、本気で嫌がる蓮に向けて拗ねたような声をあげながら騒いでいる。後ろ髪が前髪になってしまうような羽生の悪戯に蓮が怒るも羽生がやめる様子はなく、何が不満なのか唇を尖らせながら拗ねていた。
「るっせーな」
 羽生の攻撃が止んだのはトイレに立った宗像が邪魔と言わんばかりに羽生の脛を蹴ったからであり、舌打ちの落ちた先では被害者が肩で息をしながら髪を整えていた。
「っ、ってぇだろボケ!」
 全く関係ない宗像に蹴られて羽生は憤慨し追いかけようとしたものの、対象である蓮だけはそれ以上怒るでもなくどうでも良いというように溜息をついているものだから、この場から離れることが阻まれてしまう。
「あーもう追っかけてけ追っかけてけ……」
「…………」
 シッシッとまるで野良犬を見た時のようなモーションをかけてくる蓮は、いままでならば烈火の如く怒り反撃をしてきただろうにその仕草すら見られない。まるで興味がないとでもいうような態度が寂しくて、羽生はトイレへと向けていた足を百八十度変更して蓮の傍へと近付いて行く。
 窓に映る半透明な自分を見ながら大人しく髪を直す蓮にもう怒っている様子はなく、いつの間にか大人びたようなどこか冷めたような蓮の感傷に踏み込むことすらできなかった。
 ごめんと言う代わりに無言で蓮の髪の毛を梳いて直してあげると、蓮はそれに気付いた瞬間に自分で梳かすのをやめて任せるものだから、存外に怒っていないことを知る。一切のエネルギーの感じられない会話と態度は興味がないと言われているようで、羽生がつまらないと拗ねるのも無理のないことだった。
 ポケットからワックスを取り出した羽生がぺたぺたと髪を整えながら、少しだけ小さな声で聞いてみる。
「……ねぇー、今日も来るのー?」
「あ? なんで来て欲しくねえみたいに言うのよ。行くに決まってんじゃん」
 あれほど呼んでも来なかった放課後の集会に、蓮が頻繁に顔を出す様子は環境が変わったことを安易に示唆していて、確実に好転しているわけではないであろうそれに、羽生はこっそりと溜息を吐いた。
「……じゃーあとで。今日は七時くらいかなぁ、タケ連れて一緒来てねー」
「オッケー」
 蓮がちらと武人を見ればたまたま目が合って、此方の会話が聞こえていたのか眉を上げながら口を開いてくる。
「行くの?」
「行く」
 主語も無く即答すれば武人は一瞬何か考えるような顔をしてから、頷いた。
「ふーん。じゃ、俺も行こ」
「は? 羽生もともとおまえと来いっつってっけど」
 意味が分からず眉間に皺を寄せて問い直せば、溜息が聞こえた後に呆れているかのような声が教室内の雑踏に溶けていく。
「だから蓮ちゃん行くなら行こうと思って」
「なんそれ」
 意味わかんね、と呟いたところで綺麗にチャイムの音が空気を震わせて、起立の挨拶が聞こえてきた。
 ぱたぱたと自分の席に戻る羽生は手早く蓮の頭のセットを終えていて、ぐしゃぐしゃにされる前よりも整っている気がする分け目とトップを撫でていると、羽生が嬉しそうに笑いながらピースサインを送ってきていることに気付いた。
 外は快晴、校庭で明るくサッカーをする余裕さえなく蓮はだるそうに椅子に座り、教科書も開かぬまま、雲ひとつないその空をずっと眺め続けていた。



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