「マジマ……ケンゴ?」
 噛み締めるように其の名を口にしてみた途端、今朝方に母親の言っていた言葉も記憶と共に蘇ってくる。
“めっずらしー、先行くって。なんか聞いてる?”
“へぇー、いえいえ、なーんにも”
“学校に行けば分かるわよ”
“はいはい、煩い煩い、行けば分かるんだからさっさと行く”
 楽しそうに笑っていた、あの笑顔。
「…………うーわ。全部知ってたのね、あの人」
 またやられた、と今までの人生で何度目かも分からない落胆を味わい、蓮は頭を抱えた。
 母親がこうして、蓮を驚かせたいがためだけに黙っていることはよくあることで、今回は其の規模が違かったというだけの話だ。まさかこんな小さな田舎を揺るがすだけの事態を隠し持っているとは、と蓮はいっそ感心した。ただ、帰ってから対面するであろう母親の満面の笑みと、勝ち誇った顔を想像するだけで悔しさが沸々と沸いてくるだけだ。
「ね、びっくりした? びっくりした?」
「びっくりするわそんなん」
「でしょーっ、すごいよね!」
「すげーかどーかは知らんけど」
「え?」
 呆然としている蓮の様子を、マジマケンゴという人物の凄さに驚いているのだと確信していた羽生と武人は、食い違いが生じていることに気がつき、二人で顔を見合わせた。
 そんな二人の様子も視界に入れず、蓮は、芸能人と云うのならば納得できる点が増えるかもしれない、と武人の人差し指を両手で引っ張った。
「それ、どれ? 指差せ」
「え、あれ、あそこのスーツ」
「……は?」
 武人の指を両手で掴んだまま、指を刺された方角を辿ると、スーツを着ている人物は一人だけ。
 しかし、蓮が想像していたシルバーアッシュの髪の毛はそこには無く、スーツに見合うすっきりとした黒髪の人物が立っていた。
「ほんとにあれ?」
「あれだって!」
「はぁー……」
 武人の指を離して己に集中し、蓮は再び目を細めて凝視してみるが、一向にピンとは来ない。
 遠くからのシルエットで重要なヒントである髪が分からないとなると、他の着眼点と云えば体型くらいしか見当たらない。
 そして、長身痩躯な身体は相変わらず何の服も問題なく着こなしている様で、昨日見た真嶋健悟そのものだった。これだけで確信を得ることは出来ないかもしれないが、名前からしてもほぼ間違いないのだろうと蓮は思っていた。むしろ、そうであってほしいと願っていた。芸能人というならば、“綺麗”と形容してしまった自分にも納得がいく上、少しでもときめいてしまった己への後悔がゆっくりと飛び立っていくのが分かるからだ。
 男相手に其処まで褒めてしまった事実を拭い去りたいが、芸能人なら「仕方ない」の一言で全てが済ませられる気がした。
 しかし、そう考えると自分は芸能人に野菜を採らせたりなんだりさせたのか。蓮が己の行いを振り返ると、ふと、茶色に染まったシルバーリングを思い出した。
「あ。指輪。何個してる?」
「シルバーが……1、2、3……4つか、右が。左に1つだな」
「……目ぇよすぎ、さすが野生児」
 尋ねれば、その瞬間に視力2.0の宗像がすかさず反応をくれる。
「随分とスーツに似合わねぇモンを」
「うーん、たしかに」
 昨日、蓮が興味深々に眺めたそれと同じ数。ずっと付けていたし、余程大切な指輪なのだろうと思い、漸く蓮の疑念が確信へと変わることが出来た。
 真面目な黒い髪に、ジャラジャラした指輪はどうも似合わない。撮影とやらが始まったら外すのだろうか、と思った後、そんなこと気にすることでもないと見て見ぬふりをした。
 そんなことよりも、健悟の職業が知れたことによって、朝からモヤモヤしていたものが取り去られ、漸く晴れ晴れとした心を取り戻せたのだった。
 だから。
「で、なに? マジマケンゴって。有名なの?」
 そう、武人に尋ねた。
 しかし、その瞬間。
「……」
「……」
「……」
 一切の音が周りから消え、その場に居たほぼ全員の視線を蓮は一気に集めていた。
 五月蝿い位に巻き散らかされていたピンクの声が一瞬で消え、蓮にとって、今だけは蝉の音すらしない気がした。
 クラスメイトも、周りに居る先輩も後輩も、何十という目が見開かれ、その全てが自分に向けられている。
 その事実に、蓮の頭に二つの記憶が蘇った。
 昨日、健悟と会ったばかりの時の、睦と健悟の会話。そして、先程武人から電話が来た時の視線。
「……うーわ……、デジャヴュ……」
 自分の無知の所為によったのであろう前者と、自分の失言によって注目を集めた後者。二つが重なるとこんなにも生きづらいものへと変化するのか、と蓮は自嘲した。
 すると、その瞬間周りに居た人々が少しずつ騒ぎ出していき、武人にぐっと肩を掴まれ身動きが取れなくなってしまった。
「おっ、おま……!!! レンちゃん!? 真嶋健悟だよ、知らないの!?」
「……テレビ見ねぇもん」
 あ、これ、自慢したら殺される雰囲気だ。俺知ってる。
 一緒に食事をして一緒に寝たなどと、口が裂けても言える雰囲気ではなさそうだと悟り、蓮は口を噤んだ。
 蓮にとっては昨日会ったばかりの感じの良いお兄ちゃんでも、どうやら此処に居る全員の認識とはかけ離れているらしい。せめて教育実習生くらいだろうと思っていた蓮は色々と武人に話そうかと思っていたが、その全てをいま脳内から忘れることにした。
(まー……いっか。あんまよくわかんねーけど、そんな有名人と飯食えただけでもラッキーってことで)
「武人、いだい」
「わっ、ごめん」
 赤くなっているだろう肩を揉みながらコキコキと首を回すと、未だに信じられないと云った目線が自分に降っているのを感じた。
 あとで4人だけのときに聞けばよかった、と溜息を吐くが、まさかいま自分なんかの発言を聞いている人が居るとは思わなかったことも事実である。
 とりあえず、あれだ。
「武人。なに、したら授業ねぇの」
「1限はね、あれ、全校集会みたいなかんじで、挨拶会? みたいなんで潰れるっつってたよ?」
「マジでー、じゃー2限からで良かったんじゃん来んの。言えよばかー」
「言えよってレンちゃん……」
 本気で泣きそうな顔になる武人に、嘘だよと笑い、体育館から続く階段を降りようとその場に背を向けた。
「え、蓮ちゃん戻んの?」
「んー、あちぃし、ここ。場所取りおっつー」
「あちぃって、ちょ、真嶋健悟だよ!?」
「だーから知らねぇって、テレビ見ねぇっつってんじゃん」
「え、でも、えきすとら? ってやつで俺達も出れるんだって、参加自由らしいけどそんなんするに決まってるっつ−の! 蓮もするっしょ?」
「あー……いーや、楽しんでー」
 興奮気味の武人と羽生を見るに、どうやら本当にこの状況を楽しんでいるらしい。
 温度差が生じている俺なんかよりは、一人でも多くのファンが見れば良いだろうと、蓮は独り体育館を後にした。



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