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 蓮がタオルケットを落とした場所は畳の上だが、衣擦れの音でも健悟は起きていないようだった。瞼がピクリとも動いていない事を確認してから、蓮はゆっくりと手を伸ばす。
「……マジかよ」
 掠れ声と共に人差し指だけを伸ばして、つんと触ったのは、今自分も嵌めているピンキーリングだ。
 中指に嵌まっていた指輪は無くなって、健悟の左手は自分と同じ指輪だけが独占している。
 指輪を嵌めた事がない蓮ですら分かるその指の大切さだったからこそあの指輪を敵視していたのに、今はそれがない、自分だけの指、だ。
「…………」
 それなのに、この胸の奥底に潜む靄は一体何処から来たんだろう。
 以前だったら手放しに喜べたまっさらな中指だったのに、今は無くなった指輪にさえ、まっさらな中指でさえ、見ているだけで息が出来なくなりそうだ。
 うれしくない。
 たかが指輪如きに振り回されていると分かってはいるものの、無くなった今でも、一向に存在が消えないそれが忌々しいとさえ想ってしまった。
「……げろ……おれ、こんなせーかくわるかったっけ……」
 はぁぁ、と深い溜息を吐いてから、自分の指に嵌まる指輪に視線を落とす。元々性格が良い方では無いと蔑視していたものの、まさか此処まで穢い感情が浮かんでくるとは思わなかった。
 しかも、相手が利佳なんて、こんなにも自分自身に落ち込んだことは生きていて初めてかもしれない。
 自分に嫌気が差しながら、もう一度健悟の顔に目を落とせば、本当に気付く事無く口を開けてすやすやと眠っているようだった。
 此方がこんなにも穢い感情を持て余しているというのに、あどけなく眠るその顔に対し、可愛さ余って憎さ百倍とはこの事を言うのだろうか。
「…………」
 いつまでだって、見ていられる。
 飽きる事無く、ずっと直視していたい端整な顔。それを上から見下ろすも、無防備に垂れている眉は警戒心を微塵も感じさせないものだった。
 こんなにも近くで健悟の寝顔を直視していると、先程の黒い靄とは一転し別の意味で邪心が湧き出てくる。

 ――……今キスしたら、バレっかな。

 ふと胸をついた邪念に、ごくりと唾を嚥下する音が必要以上に響いた。
 ぎゅっと拳を握れば、小指の指輪が締め付けて若干の罪悪感を伴ったけれど、いまだけ、いまだけだと想うと、選択肢はあってないようなものだった。
 健悟に二度と喋らないと、逢わないと、触れないと、何度も立て直す決意が脆くも崩れ去るのは、自分の理性が脆いと言う事なのだろうか。
 ……キスしたって分かったとしても、こんな暗闇なんだから、バレないよな、利佳のせいだって、思うよな、普通。
「…………」
 ごくっと再び唾を嚥下して、真上にあった己の顔をゆっくりと降下させていけば、たかが数センチだというのに余計に健悟の匂いが強くなったことにどきどきと一層心臓が高鳴った。
 スーっと寝息の変わらないそれに安堵したのち、息を止めた蓮は、眼をぷるぷると震わせながら、開いた唇へと近付いていく。
 開いた唇に綺麗にキスをする事は出来ず、上唇をぱくりと食んだだけになったものの、人生で四度目の柔らかさは嫌というほどに伝わってきた。
「…………よんかいめ」
 嘗て無い程の心音の速さに気付きながらも、殆ど息だけで言い切ると、健悟はきっと自分とは数え切れない程にシているのだろうと、当たり前の事実が頭を襲ってきた。

 ……その中の一回位、奪ったって、別に良いじゃん。

 健悟から離れ、未だあどけなく眠る様子を見たら、身体中の器官で目だけが熱くなってきて、段々と視界がぼやけてくる。

 ――本当は、気付かれたかったんじゃねぇの。

 今したキスに気付いて、健悟に任せて、夜中の戯言を吹っ掛けて、一気に靄を取っ払おうとしたんじゃねぇの。
「なっ、さけねぇー……」
 起きている相手には到底出来そうにない行為に、唇を手の甲で拭ってから蓮は立ち上がった。
 畳に放置していたタオルケットを健悟に被せた後、向かう先は当然自分の部屋で、短考してから鍵を掛けてベッドへと飛び込む。
「…………あぁー……」
 もし、今から下に行って健悟を呼んできて、一緒に寝ようと誘えば、へらりと崩れるいつもの笑顔で寝てくれるに違いない。メールも電話もごめんと軽く謝れば、明日からはちゃんと返すよーに、と笑う姿までは想像できる。
 ――でも、その先。
 もし俺が健悟を好きだってバレたときに、隠せる自信が全くと言っていい程にない。あんなに経験知の違う人間に隠し事の出来る気がしない。
 何かの拍子でばれたとき、一度だけ見た事のある、あの冷たい目を浴びせられたら、比喩表現でもなんでもなく、きっとこれから先何もできなくなってしまうだろう。
 今健悟を呼び戻して、此処数日と変わらぬ友達に戻って、でもそれでいいの? おれはそんなんでいいの?
 ずっと健悟と一緒に居れる、でもその反面ずっと脳裏に利佳が過ぎるんだ。さっきみたいに、些細な事で、なんでもないことで、たとえば何も無い中指一本を見ただけで、十七年間付き合ってきた利佳を思い出すんだ。
 友達として居ることはできるけれど、きっともうそれだけじゃ満足できない。自分が、本当に気持ち悪い。なんでこんなこと想うんだろう。こんなこと想わなきゃ、隣に一緒に居れたのに。
 無くなった指輪の理由を訊いて、「何で」なんて、言われたくない。
 「関係ない」なんて、そんな言葉絶対に聴きたくない。
 冷たい目を向けられたくない、嫌われたくない。

 嫌われたく、ない。





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