「……ふぁあーっ……」
母親の罵声が階段下から聞こえてくるいつもの朝、ぼんやりと揺らめく視界に瞬きを繰り返し、蓮は布団の中で欠伸をした。
一向に働きそうに無い脳内で、なんとなく覚えている記憶を辿り隣に目を向けるも、其処には人の気配はおろか誰かが寝ていたスペースすら存在しなかった。分かるのは、ただ、自分が大の字で寝ているという事実のみ。
試しにと二段ベッドの上段に耳を澄ませてみるも、人が居るような気配は全く感じなかった、いつもと変わらぬ朝。窓を開けて居る所為で、いつもと変わらぬ、五月蝿い蝉の鳴き声。
ただ一つ変わったことと云えば、たった１日で覚えてしまった、部屋に漂う爽やかな香りくらいだった。布団から香る匂いに、もはや香水ではなく体臭なのではないかと疑ってしまう。
しかしそれがあったからこそ、自分の記憶が夢と混同しているわけではないと、そう思えた。
「レーーン！！！」
「……あーい、起きてるーっつーの……」
うるせぇー。そう言おうものならば万倍返しは目に見えているので、蓮は何も言わずに起き上がり、ゆっくりゆっくり階段を降りていった。
「おそよう」
「んー……」
軽く顔を洗った後で、睦の嫌味の篭もった台詞を受け流し、だらしなく頭を掻きながら席に着く。
白飯、漬物、ほうれん草の御浸し、玉子焼き、焼き魚、お味噌汁。蓮の祖母と母親が作る定番の朝飯の匂いを嗅ぎ、漸く覚醒していくのも、蓮の日常の一つであった。
そして、昨日余分に取り過ぎたのか、蓮の予想通り茄子と油揚げの味噌汁を啜ったとき、目の前に携帯が置かれた。
「朝っぱらからうるさいのなんの」
「あー……忘れてた」
面倒臭そうな睦からの言葉に、蓮は味噌汁のついた唇をぺろっと舐め、充電してないや、と呟きながら携帯を見つめた。
しかし、蓮の生活においての携帯電話の活用法などたかが知れたものであるために、驚きもダメージも与えられない。
ただ、五月蝿い音を好まない蓮にとって、自分の携帯のマナーモードが解除されていた事実以外には。
「……さわった？」
「いまさわったけど」
「だろーね」
蓮も強いとはいえないが、それ以上に機械オンチの家族を持っていては、疑う余地も無かった。唯一機械人間の姉だが、姑息な彼女のことだから、触ったにしてもこんなに端的な証拠を残すはずも無い。
特に見られたくない情報もない携帯を、蓮は、間違って自分が解除していたのかもしれない、と納得して、メールの受信画面を開いた。受信していた二件とも、差出人の名前は佐藤武人。
一件目は、昨日の夕方。ドタキャンした直後のメールで、泣いている絵文字が数個重なっているという武人らしいものだった。そして、もう一件は。
「めっずらしー、先行くって。なんか聞いてる？」
玉子焼きを口に含み、もぐもぐさせながら睦に尋ねると、睦は小さく噴出し、意味深に笑った。
「へぇー、いえいえ、なーんにも」
「うーわぜってぇ知ってんだろマジで」
「さーねー」
「昨日断ったから怒ってるとか……いやねーな」
武人だもんな、と小さく呟きながら再び携帯のメールへと目を落とす。
蓮とは違い、絵文字を沢山使う武人の簡潔なメールは急いでいるという何よりもの証拠だった。
「はいはい、御飯食べてるときに携帯弄らない」
「へーい」
まぁいいか、と充電の減った携帯をあっさりと手放し、再び白飯へと箸を伸ばす。
時間が無いと分かりながらも味わって食べたくなる美味しい朝飯。そして、既にそれを済ませた人の分の食器を洗う睦の手に見慣れない食器があり、それが健悟のだと分かるまで時間は然程掛からなかった。
「そうだ。健悟は？」
「仕事ー」
「はぁ？ 東京の奴じゃねーの、……こっちで就職見つかったから来たとか？ こんな田舎に？？」
「学校に行けば分かるわよ、はやく食べちゃいな」
「なに、松川センセついにあれ、産休？」
「ちーがーいーまーすー」
「えー、なんだ。じゃああれだ、教育実習。 ……いや？ でもこんなトコまで来て……」
「はいはい、煩い煩い、行けば分かるんだからさっさと行く。遅刻しても知らないわよ」
「……へーい」
誰かが産休に入る代わりの先生か、教育実習の大学生か。どっちにしろあんなに格好良い奴なら皆食いつくだろうな。
もしかしたら自分がこうしてほうれん草を食べている間にも、学校では鼻血を出している女子が数名くらいは居るのかもしれない。昨日の健悟の笑顔を思い出し、ふと、そんなことが自然と思えて笑ってしまった。
そのときは、武人あたりにでも、昨日俺ん家で飯食ったんだぜ、と元気に自慢してやろうか。
少し寂しい登校の後に待っているだろう、面白そうな展開に、珍しく朝から蓮の表情は明るかった。
（……ん？ しかし、あんな髪の毛で、先生……？ なわけねぇよな？）
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