13
「…………」
「忘れもの? 帰るには早くない?」
 黙したまま立ち尽くす蓮に、利佳が遠くから訝しげな視線を送るも、蓮が前髪から瞳を覗かせる事は無かった。
「……早退」
 ぽそりと呟いたのは一言だけ、睦の位置までは届かない程に小さな声だった。蓮はそのまま横に抛ったままの薄いスクールバッグを抱え上げ、三人の視線に一視すら返す事無く急いで階段へと向かっていった。
「えっ、早退って大丈夫なのかよ、……って、蓮? おい!」
 しかし、ガタリと椅子が引かれた音と共に聴こえた煩い足音は、言わずもがな健悟のものだった。
 今更何を追ってくることがあるのだろうか。いまどういう気持ちで此処にいるのだろうか。
 相手の気持ちが見えないことが此処まで不安になるなんて、知らなかった。
「蓮ってば、」
 小走りで蓮の元へと走ってきた健悟が、蓮に向けて右手を伸ばす。
「……さわんな」
「え……?」
 しかし、それを気配で察した蓮は俯き気味に手を払い除け、一人先に階段を上っていった。
 差し伸ばした手を無慈悲に払われるという事項は健悟の中では全く存在していなかったため、一瞬掌を見つめ空虚を経てから、思い出したように急いで蓮の背を追っていく。
「……ちょ、蓮ってば!」
 だが再び伸ばした手が間に合う事無く、閉められた扉の一瞬後にはガチャリと鍵の掛かる音がした。
「、!」
 ひゅっと息を呑む。
 初めて聴いた、蓮の部屋の鍵の音。
 ガチャリと閉ざされた音の次には、一切空気が揺れることはない冷たい空間が広がっている。
 今まで狭い暑いと散々文句は言っていても、蓮がこの扉の鍵を掛けることはなかった。予期せぬ事態に胸がざわついていることには健悟自身気付いていたが、それを抱えたまま、震えてしまいそうな手でトントンと扉を叩く。
「……れん? 気分悪いなら何か持ってこようか?」
 ざわざわと嫌な予感が表情にも表れる。引き攣った笑みが浮かんでいるこの現状を、きっと閉じ篭もった彼は知らないのだろう。
 言いようも無い焦燥に駆られた健悟がトントンと何度か扉を叩くと、暫くして、中から辛辣な声音が返ってきた。
「来んな」
 真っ向から拒絶を隠そうとしない声に、扉を叩く手すら止まってしまった。
「…………」
 ……なんて言った? 
 一番聴きたくない言葉を受け入れられず返答できずにいると、そのまま無言だけが広がる。どうやら蓮の言いたいことはそれだけのようで、二の句が続く事は無かった。
 ごくりと息をのんだ健悟が懇願するように茶色い扉を叩くも、返事は返ってこなかった。トン、トン。繰り返し続けると、中から聞こえたのは小さな溜息。
「……なぁ。おい、冗談きついって、気分悪いんならちゃんと」
「いい。大丈夫」
「でも、」
「もう寝るし」
 まるで決まり文句のように皆まで言わずとも台詞が返ってくる。尋常じゃないように思える様子は、ただ顔が見えないから心配しすぎているだけなのだろうか。本当に気分が悪いから、気も遣えずに困憊しているだけなのだろうか。先程走っていたことすら何か引き起こす原因になったのかもしれないと心配のままに健悟が声を掛けるも、蓮が発する言葉が温度を取り戻す事は無かった。
「……つか、ほっといて」
 戻れよ、と、言いたくも無い言葉を、蓮の唇が勝手に紡いでいく。
 利佳を放って此方を優先して追い掛けたのは、きっと具合が悪そうに見えたから、利佳に頼まれたから。些細な期待や自信すら微塵も崩れ去ってしまった今ならば、消極的な言葉など跡を絶たずぽんぽんと出てくる。嫌になる。馬鹿になる。最悪だ。嘘を吐いての早退がよもや現実になってしまいそうだ。
 それでも、「ねぇ」とノックが止まないそれに苛立って、手近にあったクッションを躊躇い無くドアに叩き付けてやれば、少しの間の後、漸く階段を降りて行く音が聞こえた。
 トントントン、と階段を降りる音が遠退き、部屋には再び静寂が走る。
「……くっそ、……なんなんだよっ……」
 健悟が居なくなった事に安堵したのは初めてだ。いつもは居るから安堵して、居ないから不安になっていた。傍に居て不安になるなんて、今の自分は本当にどうかしているらしい。信じられないことばかりがたった数分の間に起こってしまった。確かに見た。焼き付けた。離れない。
「、」
 なんで利佳に指輪渡してんだよ。
 なんで利佳に好きだっつってんだよ。
 その指輪が、今までの大事なやつだったんじゃねぇのかよ。
 利佳、彼氏居たんじゃねぇのかよ、健悟なんか好きじゃないって言ってたじゃねぇかよ。
 
 あの曲の意味が、全て利佳の為にあるとしたら。
 向かうべきでは無い場所につき進んでしまうのは結局は嫉妬の塊というやつで、自分がみっともないと、愚かだと嘆くことしかできない。

 繋ぎ合わせれば答えなど簡単に出てしまう方程式を、焦らして解こうとはしないのは紛れも無い自分自身だ。
 健悟と居たたった数日間が、利佳のいう十年に勝てる筈もない。勝負にすらならない。最初から、健悟を想っていたことから、全部全部、間違いだったんだ。





「あ。おつかれー、蓮なに、どしたの?」
「…………」
「え、マジで具合悪いの?」
 階段を降りると、ぶかぶかの指輪を愛しそうに弄り倒す利佳が健悟へと問い掛けてくる。
 しかし健悟からのまるで無視でしかない態勢に苛立ち、顔を歪めてからガツンと脛を蹴りつけてやった。健悟は脚に痛みが走って漸く焦点を合わせ、ハッと目を覚ましたかのようだった。
「うっわーなに? まさか痴話喧嘩とか言わないでしょうね?」
 にやにやと笑いながら利佳が告げれば、存外眉を顰めた健悟が唇を開く。
「……だったら、良いんだけど」
「はァ?」
 健悟も、利佳からのからかいに身を預ける事は出来ず、ざわざわと蠢くこの不安が杞憂に終わることを望んでいた。確かに誰にでも虫の居所が悪い時というものは存在する。気分が悪いというならば無理に問い質すよりも寝かせる方が先決だろう。
 一瞬見えた蓮の指にきっちりと嵌められた指輪を信じ部屋から去ったものの、最も信じたく無い“拒絶”の二文字が頭に浮かんでくる。一抹の不安が浮き出てくる。例えようも無い焦燥感に駆られていた。

「…………」

 ――もしかして、蓮を好きだというこの気持ちがバレてしまったが故の拒絶なのだろうか。

 不躾な視線を数え上げればキリが無く、よく気付かなかったと逆に褒めてやりたくなるものばかりだ。蓮に受け入れて貰えるなんて、本当に夢物語だったのだろうか、最悪の状況を考えるだけで情けなく肩を震わせてしまいそうになる。
 募るのは嫌な予感ばかりで、次に眼が合うときは彼が笑顔であるようにと、そう、祈ることしか出来なかった。



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