「……、」
 機敏に面を上げ、一瞬だけびくりと後ろに退いてしまった背は、誰にも見られていなかったように思える。
 そして、反芻される言葉に抉られている気がするのは気のせいではなく、まるで頭を鈍器で殴られたような痛みが走っていた。
 
 ――あー……やばい。それ、やばい。……多分そこ、俺が一番触れたくない部分だった。触れて欲しくない部分、見ない振りをしていた場所だった。 
 自分で分かってるつもりではいたものの、人に言われるとこんなにも説得力があるっつーか強打力があるっつーか、全然ちげーわ。
 わかってんだよ、んなことは。東京人、芸能人、大人、想像するだけで交わることのないキーワードは、自分とは程遠い存在を直視したくないと避けていたことだけに、改めて付きつけらると心臓が縮こまる。余計に自分がちっぽけな存在でしかない事を実感する。

 ――相手にされるはずねぇなんて、俺が一番分かってんだよ、畜生。

 比べられて、鼻で笑われて、おまえには無理だと言われたようで、恥ずかしくなった。悔しくなった。たかがどうでもいい奴の一言なんて、普段は気にもしないはずなのに。疑いが晴れて喜ぶべき場所な筈なのに、放たれた言葉に思い出したく無い事項ばかりが脳内を支配し、下唇を噛み締めることしかできなかった。
 咄嗟に握り締めていた拳を見て思い出すこと、それは、まるで此処を利用しているとばかりに言われた先程の台詞だった。そんなわけないと、馬鹿な事いうなと、おまえが何を知っているんだと言いたかったけれど、言えなかった。それ以上に馬鹿なことを考えてしまったからだ。
 今までたった数日でも一緒に居て、健悟を見てきたからこそ、一緒にいた健悟自身が“真嶋健悟”ではないことに否定はするけれど。

 ――でも、その健悟自身が、演技だとしたら。
 
 巧い演技に、騙されてるとしたら。
 本当の健悟に、まだ出会えてないとしたら。
「……んなわけ、」
 ねぇだろ、とぽつりと呟く気力すらなく、蓮は口元に手を当てた。
 余りにも飛躍しすぎた思考を責めるも、一度考え始めた靄を取り払うことは難しい。普段見受ける姿とは百八十度違う“真嶋健悟”を演じ続けている健悟だからこそ、他の仮面を持っていても素直に頷ける。だからといって納得し難い恐怖に支配されれば、その闇が身体から抜けてくれる気配はなかった。
 ドクドクドク、と小刻みに心臓が震える。煩いリズムが耳を襲う。
「…………」
 そんなん疑ったらきりねーだろ。もっと信用してもいいだろ、……っつーか、そんなはずねぇよな、普通に考えて。
 綺麗に笑う優しくて馬鹿な健悟だからこそ好きになった。利佳だってそう言ってた。「これ」が本当の健悟だって、そう言ってた。前にも疑って先走って喧嘩になったんだ。
 信じんなよ、そんなはずねぇよ。

 ――でも。

「……チッ、」
 心の中で仮説を唱え出せばキリが無い。
 好きになった奴疑ってんじゃねぇよ。そうは思うのに、でも、けど、と頻出する女々しい思考回路が嫌になる。可笑しいよ、俺こんな奴じゃねぇはずなのに。健悟に訊けば良いだけなのに、それすら怖いなんて、ぜってーおかしい。もしそうだったときに肯定されたらとか考えるだけで、なにこれ、なんでこんな心臓うっせーの。
 くだらねぇ、ビビッてんじゃねぇよって責める自分と、臆病で逃げまくってる矛盾した自分。
 一番信じなきゃいけない奴疑ってんじゃねぇよ。
 そうは思っても、でも、だからこそ。
 一番好きだからこそ、一番信用したいからこそ、信じることが怖くなる。そんなこと、知らなかった。
 利佳も武人も羽生だって、絶対に裏切らないって思えるのに、健悟に対してはそう思えない。武人のように全身全霊を掛けて、こいつは味方だって胸を張ることが出来るのだろうか。
 信用してないんじゃなくて、信用すること自体が恐い。全部を知ってるわけじゃないのが怖い。一線を張って、そこから踏み出したくないような、曖昧な感情。なにこれ、なんだこれ。
 なんでこんなに信じられないんだ、疑うんだ、何も知らないから? 健悟の交友関係を知れば満足なのか、あいつがいままでどんな風に生きてきて、どんな友達が居て、どんなことを考えながらどこで生活して――あいつの全部を知ることが、信用に繋がるのか? そんなことで治まるのか、これ。
「あー……」
 ――やっべ。
 ぽそりと呟いたら、武人から心配そうに名前を呼ばれてしまった。
 あーもうマジ駄目人間。心配かけてんじゃねぇよ、もっとしゃきっとした顔してみせろよ。
「……っと、あー、わり。ちょーっと気分わりぃから早退ね、おれ」
 せめてもの慰めにと引き攣った笑みを自覚しながらも武人の肩をぽんと叩いて、すっかり静かになった教室を抜け出す。こんな不安なままこの場所に残りたくなかった。クラスメイトからの突き刺すような視線がうぜぇ、どうせ明日になりゃ忘れてるくせに、好き勝手言いやがって。あ、そっか、明日はもう夏休みだっけ。
「おい、五十嵐!」
 ったく、あと数時間もすりゃ帰れるじゃねぇか、と呆れたように言い放つ担任の声がやけに耳に残る。
 クラスメイトだけならまだしも、庇ってくれた武人にも構わず八つ当たりしそうな自分が嫌で、始まって数分のホームルームから逃げ出した。
 だっせ。ちょーだっせ。あーもうやだ。ほんときもちわりぃ。こんなもやもやした感情いらねぇ、取っ払いてぇ、俺の馬鹿。
 
 どこだよ。こんな不安が消える方法なんて、何処にあんだよ。
 何をすれば、何を知れば、落ち着きを取り戻せるんだろう。




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あきゅろす。
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