“いってらっしゃい”
 文末には動く絵文字がついていて、これをデコ文字というらしい、なんて、昨日健悟に教わったものだ。
「…………」
 相変わらず騒がしい教室内はホームルームの為に段々と人が体育館から戻ってきている証拠で、蓮はその中で一人携帯電話を覗き込んでいた。今朝は撮影開始が遅いらしく、未だ家に居るらしい。見送りができなかったと嘆く健悟から、メールが届いていた。忙しい朝でも自分なんかのことを気に掛けてくれるその優しさが嬉しくて、気を抜けば崩壊してしまいそうな顔を引き連れて蓮は返信画面を開いている。
 体育館から戻ってくる集団が口々に真嶋健悟の不在を告げている傍らで、不思議な気分に陥りながらの出来事だった。
 そして、此方もいってらっしゃいと、撮影頑張れよと珍しくも絵文字をつけてしまったのは、やはり気持ち一つの問題なのだろう。健悟を好きだと自覚した今、突然絵文字を使い出す己を気持ち悪いと思いながらも、少しでも印象が和らげばと、何の感慨も無い携帯如きに縋ってしまうのだから惨めなものだ。
 送信しました、の表示に、離れようという決心はどうしたんだと溜息を漏らした、その瞬間。
「れんちゃーん、おっはよ〜」
「……びっくりしたー、オハヨ」
 背中に羽生が圧し掛かってきた。覚えのある重圧、いつもの奇行に驚きつつも、見られてはいけないと真っ先に携帯電話を閉じていた。
「ねね、昨日のテレビ見た〜? すごい面白かったんだよ、あのねぇ――」
 目の前で羽生が笑ってる。その事は分かるのに、なぜか頭が働かなくて、認識しているだけの光景を只眺めていた。
 うん、うん、と勝手に出る相槌に任せるものの、意識がポケットに入っている携帯に捕われていることは否めない。羽生に申し訳無いと分かっているのに、それ以上に何日考えても答えが出ない問題に、身体中からは一向に靄が抜け出てくれない。
 此処数日、いつだって、罪悪感が離れない。
 所詮は友人からこんな風に思われてるなんて、きっと気持ち悪い以外の感情は浮かばない。考えれば考えるほど、拒否された時の健悟の顔を想像して鳥肌に襲われる。利佳に対する恐怖が甘いと感じるまでに恐れる事態だ。
 健悟に勘付かれたらまずいことは分かる、これ以上好きになっちゃいけないのも分かる。
 でも、それ以上に好きなんだ、一緒にいたいんだ、例えあと数日しか残されていなくてもそう思ってしまうんだから、このどうにもならない矛盾をどうすればいいんだろう。
 このままなんて健悟に悪いのに。
 棄てなきゃなんねぇのに、最悪だ、俺。
 身勝手なエゴと本当は分かりきっている最善策が身体中を真っ二つに切断していて、動けないのは完全に自己保身でしかない。
「ちょっとー、聴いてますかぁー? ねー」
「――え、……ああ、」
 聴いてる、と言おうとした頬が引き攣ってしまい、あ、やばい、と感じたそのとき、タイミング良く教室内の一角が一瞬ざわついた。
 羽生に見られないようにわざとらしく顔を其方に背ければ、どうやら入り口付近に男女の人だかりが出来ているようだった。
「あ! 来た来た、おはよー! ねぇ、昨日どうだったー?」
「駄目駄目、余裕で撒かれちったもん」
「あー、やっぱねー」
 必要以上に笑顔を振りまくクラスメイトが珍しくて、いつもならば興味すらない筈の会話だというのに、黄色い声に耳を傾けてみる。
 きゃあきゃあと声高に叫ぶそれは“真嶋健悟”を見るときの歓声に酷似していて、今回も同様の噂話なのだろうかと勘繰り始めれば、次に耳に入ってきた一言によって持っていた携帯を落としそうになってしまった。
「やっぱ無理なんでね? 車でマネージャーと旅館行くべ普通」
「えー、でも歩いて帰ってんだって、見たもんこの前」
 マネージャー、という単語に結びつくものは現在体育館に居る数名の役者たちで、「撒かれた」という言葉を思い出せば図らずしも眉間には皺が集まっていく。
「…………」
 ――こいつら……まさか健悟のこと追っかけてねーよな。
 過激な歓声も過度の執着も学内だけのことだと思っていただけに、想定外のストーカーというキーワードが頭に巡ってしまい、羽生から声を掛けられていたこともすっかり忘れ耳は其方へと向いていた。
 大きな声で悪ぶりも無く落胆するクラスメイトに、普段どれだけ健悟が疲れて帰ってきているのかを教えてしまいたい。とろんと眠たそうな表情で岐路に着き、おやすみを言う間も無く眠りに入る。疲れた寝顔を思い出し、「最悪だな」と蓮が小さく呟いた瞬間、段々とその会話の矛先が変わり始めた。
「――あれだよ、いっつもあそこいら、踏切抜けたあたりで見失うんだっけ」
「は? あっち? ……あっちあんのって、蓮かタケん家くれぇじゃね?」
「えっ?」
「……え、いやいや、そうだけどさ、え、なに……じゃあ、てことは……」
 蓮が口を挟む必要が無いとばかりに襲い掛かってきた、嫌な予感。
 噂話に己の名があがる不快感も、クラスメイトの無神経さも全て嫌悪として隠す事無く眉間に現れていた。
「なぁ、蓮、聴いてたろ?」
「……あァ?」
「あーじゃねくてさ。――なぁ? 真嶋健悟、おまえん家に居るんじゃねぇの?」
「…………はあ?」
 確信を衝かれて鼓動が跳ねたことは、たった一瞬の出来事。
 いつから注目が集まっていたのかざわざわと騒がしい教室内の不躾な視線によって、心臓の音までもが掻き消されそうなほどだった。



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