「れん……?」
「……」
 じっと指輪を見つめる蓮に対して、健悟が少しだけ指に力を込めると、蓮の肩が一瞬面白い位にびくりと跳ねた。
 触れ合えば逃げていく蓮だったのに、いつの間にかボーダーラインが薄くなっている。
 この距離だ。隣に存在し、肩をあわせ、指を握ることができる、この近距離。何処まで優しいのかと、何処まで許してくれるのだろうと期待が強くなることも、至極当然のことだった。
「れん、」
「……んだよ」
 呼びかければ、俯いている頬がうっすらと赤く染まっていることは気のせいなのだろうか。忘れた頃に断続的に上がり続けている花火は赤を彩らず、蓮の頬を染める理由にはならない。
 いま彼は、なにを見て、なにを思って、なんでここにいるんだろう。その赤い頬の理由は、なんだ。
 誰も居ないこの家で、蓮から握ってくれた掌をもう一度ぎゅっと握り直してから、煩く脈打つ鼓動を引き連れ真剣な瞳を生み出す。言葉に乗せたのは、数十分前から蓄積していた、小さな小さな靄の塊だ。
「……なんで、戻ってきてくれたの?」
「……」
 今日は遅くまで帰らない。夕方、蓮から来たメールは無常にも簡潔過ぎるものだった。
 交友も利佳の説教も、蟠りは残っているだろうに帰宅してくれた蓮。そこに浮かぶ感情は嬉しい以外に見つからないけれど、だからこそ、この雰囲気のままに聴いてみたい言葉があった。期待していた。
 しかし。
「……べつに、……利佳に、おまえの子守頼まれただけだよ」
 蓮は、揺らがぬ健悟の視線から逃げるように唇を尖らせた。あまりにもわざとらしく逸らした視線は自分でも不自然だと後悔するほどで、健悟と付き合えばまず嘘は付けないだろうとありもしない仮定を立ててしまった。
 だって、言えるはずがない。
 本当は、俺だっておまえと行きたかったからだなんて、おまえと居たかったからだなんて、仕事で疲れている健悟を余計に疲れさせること。
 うそに決まってる。来年は行ける祭りでも、そのときおまえはいないから、だから、例え何処でもいま一緒に居たかったんだ。
 離れなきゃって分かってるのに、脚が勝手に帰ってた。
 羽生の家から帰ってきたときも勝手に身体のままに行動してたけれど、そのときと決定的に違っていたのは自覚しているのかどうかだ。これが正しいと思うし、健悟が好きなんだから当然だろうって、そう胸を張れる。本人には、まず言えないけれど。
 嘘のままに黙してしまい、此処から空気が悪くなるのは嫌だなと懸念を抱いていると、健悟からふうっと溜息が聞こえた。
「そっかぁ」
 何かを納得するような言葉に蓮が顔を上げると、想像していた靄がかった表情とは一変、健悟は予想外にも口元に弧を描いていた。握られた親指で手首を撫でられ、ぞくり、背中が粟立つ。
「じゃあ利佳に感謝しないとね」
「?」
 健悟がそうして笑んだ途端、随分な間隔が開いていた花火が突然空に咲き、もう終演したと思っていただけに必要以上に驚いてしまった。
 しかし、健悟はそれを予想していたかのように空を降りる緋に向け柔和な笑みを浮かべている。
「こんな綺麗な景色独占できるの、知らなかったし」
「……」
 目尻を下げて笑窪を浮かべる健悟に、おまえのが綺麗だっつーの、と言えない否定を浮かべることは簡単だ。
 武人と居ても玲子と居ても、クラスメイトに集団で廻ろうと誘われても、どこか蚊帳の外から眺めているだけだったのに、やっと鼓動が旋律を取り戻した事を自覚できる。
 放たれる一言一言を聴き逃さまいと耳を傾け、その乗せられる甘い声に、握られた手に、揃いの指輪に、彩る全てにうるさくさせられる相手はこいつだけ、健悟だけだ。
 さらりと軽口を放つ健悟とは違い、言いたい言葉ばかりが飲み込まれてしまう。
 思ってもいない貶し言葉ならば沢山出てくるのに、本当に思っている褒め言葉を出すことは、なんて難しいんだろう。
「花火あがっても見えるんだね、星って」
「……そりゃ、当たってねぇ方は見れんだろ」
「あーそっか。でもあれだな、俺にとってはこの前見たのが一番だったかな」
「ったりめぇだろ、あんなんずっと住んでる俺だって最高級だって認めてやるよ」
 あのときを思い出しながら、むんっと意気込む。すると、「そっかー」と優しげな声が聞こえてから、突然、肩にぽすんと重みが増した。
 灰色の髪が首を擽る。びくりと大きく震えた肩が伝わったらしく、横でくつくつ笑われていることが分かったけれど、その余裕さに合わせられるほど健悟との触れ合いに慣れてはいない。すぐ傍にある頭に自分も凭れて良いのか、突き放すべきなのか、そんな些細な事さえ悩んでしまうのは、きっと邪な気持ちが産まれてしまった所為なのだろう。
 結局、数秒悩んだ末、えいっと心の中で拳を握りながら健悟の頭に耳を預けると、また笑いを噛み殺したような震えが伝わった後、「おそいよ」と言われてしまった。
 ……なんだ、良かったのか、これで。こんな体勢友達同士でもありなのか、あり、なんだな、きっと。
「あー……なんか、良いね。こんなのが当たり前に見れるなんて、羨ましい」
「そ、りゃどーも」
 健悟が喋るたびに頭から振動が伝わって、それが心地良いと素直に思う。縁側から見える景色を素直に褒められたと思った蓮は、未だ肩と手に意識を持っていかれながらも御礼を返した。
 本当は、健悟の言う羨ましいの真意とは、こんな友達相手にも無防備になっている蓮の「いままで」を知っていて、「これから」もずっと無条件に傍に居れる周りの人間全てが羨ましいという意味なのだけれど、それを伝えたところできっと蓮は訝しげな視線しか送って来ないことは容易に想像がつく。
「此処に来て初めてだったよ」
 なにが、と蓮から言葉が掛けられずとも、沈黙は耳を傾けてくれている証拠だと捉え、健悟は手中にある蓮の手を愛しそうに撫でながら話を進めた。
「本当に青いばっかりの空を見たのも、みんなで御飯囲ったのも、外でチャリンコ二人乗りしたのも初めてだった。あ、あと、こんなに楽しいのも、はじめて」
 ふんわりと笑ったことは空気で分かり、蓮は「うそだ」と言ってしまいたくなった。
 こんなに知人の多い健悟が、沢山の人と携わってきた健悟が、此処に居る以上に楽しいことを知らない筈が無い。何もない田舎のくせに、何でも揃う東京に勝てる筈が無い。
 そうは思えども、まるで波の無い水面のような健悟の様子には、口を挟む事は憚られてしまった。
「…………」
 はじめて、なんて。こっちの台詞だ。あれも、これも、いまも。俺なんか、健悟のせいで感じる“初めて”ばかりで押し潰されてしまいそうなほどなのに。

「だって、でっかいケーキ見たらもう五十嵐家のことしか思い出さないよ、おれ。一気に二個食ったチョコとショート思い出して、うまかったなーって思うんだろうなぁ。あ、でも、星空はあんなすげぇの見たことないしなぁー……なんだろ、多分東京帰って、星も見えない時に思い出すんだろうね。あんときは、って」

 言いながら、近い未来を描き楽しそうに笑った健悟に、いつもとは違う雰囲気を捉えた蓮は握る手の力を強めながら、小さく呟いた。
「……っだよ。んな、最後みてぇに言うんじゃねぇよ」
「あはは、ごめんごめん」
 覗き込んだ蓮の唇から白い前歯が覗いていた事実に、健悟は温まる心を自覚しながら、空いている右手で蓮の頭をぽんぽんと撫でた。
「ありがとうね、れん」
 ありがとう、何回健悟から言われたか分からない言葉。言う度に微笑んでくれて、嬉しそうな顔をしてくれて、感情を身体で表現できる人は得だと何度思ったか分からない。
 健悟の頭を撫でる動きに、手を伝わる体温に、耳元から聞こえる声に、その全てが消えてしまうことが信じられなくて、まるで別れに似た言葉が数日後本当になることが信じられなくて、気を抜けば勝手に出てきそうな涙を必死に堪えた。
「……やめろよ。おまえのありがとうは聞き飽きた」
「えー。じゃあちゅーでもする?」
「だからなんでだよ、ふざけんな」
 罰ゲームだから、芝居だから、誕生日だから。
 理由付けされて落とされるキスに、意味なんてないことは分かっている。
 そして、理由無く健悟にキスして貰える女の子が羨ましいと、今ならばそんな汚れた妬ましい感情だって産まれてしまった。
 落ち着こうと横においてあるラムネを口に含んだ、その瞬間。
「ひっどいなあ、じょうだんだって、冗談っ」
「ちょっ!」
 頭を撫でていた手が移動して、笑いながら背中を叩かれた。
「あ、」
 その不意打ちの所為で飲んでいたラムネを縁側に吐き出してしまった今、ふと、これからのことを想像してみる。
 噎せて息が出来ないこの状況に「ふざけんな」と怒号し此処を去る三十秒後、残されて焦る健悟を笑い「嘘に決まってんだろ」と、「馬鹿」と罵りながら、冷蔵庫から最後のデザートを運び出すだろう三分後。
 へらりと笑う健悟と一緒に冷蔵庫を綺麗に片付けて、そして、利佳が怒り雑じりの形相で帰宅するまできっとあと二時間。
 誤魔化すようにごめんと笑って、健悟を巻き添えに寝室に篭もるだろう今日の夜。
 青いタオルケットに二人で包まれながら夜が更ければ、明日は高校の終業式だ。
 終業式が終われば、夏休み。
 いくら願おうとも叶わない、健悟が帰る日は着々と近付いている。
 変化してしまった日常が崩れ去り、また以前と同じに戻る数日後、きっと、ただそれだけのことなんだ。
 それでも俺はきっと、この縁側に座るだけで、今日見た花火を、太鼓の音を、隣に居た筈のやけに美しい男を思い出してしまうに違いない。

 たった数日で、此処まで膨れ上がってしまったこの感情を何処に持って行けば良いのか、感じた事の無い痛みは何処からやってくるのか、答えも出ない問いに、人間の感情ってすげぇなぁなんて、ふざけたことをぼんやりと思って泣きそうになった。




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あきゅろす。
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