ケチャップとマスタードのたっぷりかかった赤茶色のフランクフルトに齧り付いた健悟は、パキンと良音を聞いた後、そういえば、と花火を見ながら呟いた。
「ていうかそもそも祭自体行った記憶無いのかも、おれ」
 先程考えた“花火を何時見たのか”という自問には、移動中の車の窓枠に嵌まっていた欠けた丸や自宅からの風景を思い出しての事だったと自答する。テレビ中継や信号待ちの車から見える祭りの風景と、高層ビルに隠された花火を楽しそうだと思いながらも、たしかに、自分で足を踏み込んだ記憶は一度も無かった。
 小さく唸りながら思い出したように健悟が言えば、蓮は双眸を開かせ、買ってきたラムネのビー玉をコロコロと震わせながら尋ねた。
「マジ? 仕事忙しくてとか?」
「んー。それもあるけど、なんだろ、わざわざ人混みに行きたいと思わなくね?」
 人だかりという一段と五月蝿い場所、面の割れる危険性が高まる場所に自ら踏み出す気にはなれなかった。別段一緒に出掛けたいと願った人物も目の前の小さな男以外には心当たりも無く、健悟は当然のようにそう告げたのだが、言った途端、まるで蓮の目玉がぽろっと落ちてしまいそうなほどに大きく見開かれてしまった。
「……」
 蓮が無言で見つめる先は、澱み無く言い切り、真っ向から花火に赤く彩られた端正な横顔。

 ――だって、ショッピングセンターも、お祭りも、……行きたいって言ってきたのはおまえからだったじゃん。

 わざわざ人混みに行きたくないと発したその口なのに、前回も今回も、自分とは行ってくれる気になっていたという事実が、たとえ気紛れでも嬉しくて仕方が無い。
 深読みかもしれない。わかってる。調子に乗ってしまっているのだろうか、気を抜けば声さえあげてしまいそうな嬉楽に、蓮は少ない腹筋に力を入れてその声を制御していた。
 健悟のたかが一言に、垣間見せる一部分にこんなにも動揺してしまうことはきっと、いけないことなのだろう。駄目なことなのだろう。
 友人相手にこんな想いを馳せることはいけないと、そんなこと、分かっているのに。
「…………」
 そうだ、きっと連日の撮影に疲れ、気分転換に連れて行ってくれたのだろう。それに、この狭い田舎では確かに見付かる危険性だって圧倒的に下がる。だからこそ、東京で行くことのできない場所に本当に行きたいと思っていたのかもしれない。

 ――俺と一緒じゃなくても、……べつに。

 勝手な解釈を進めた末に漸く熱が冷め、幾分か冷静に太鼓の音を耳に入れることが出来た。
 そうだ、そうしなきゃ。これが正しい。
 もしかしたら、なんて期待は必要ない。相手は男で、東京人で芸能人で、あと数日もすれば目の前から消える人、いつかの結婚の行末すら報道で知ることしかない相手だ。遠い相手に期待なんかしないほうが良い、してはいけないんだ、ぜったい。
 産まれた想いに精一杯の蓋を掛け直した蓮は、一度ゆっくりと深呼吸をしてから持っていたラムネを縁側に置き、溜息を吐いた。
「……わり」
「え、なんで謝んの?」
 邪な考えが尽きることなく浮かんでくる廃れた思考にも、健悟を無視し自分の事しか考えていなかった自分にも。
 健悟から目を逸らし、何かを誤魔化すかのように髪を梳きながら言えば、端整な顔が疑問を浮かべながら覗き込んできた。
 コンタクト特有の縁の無い真の灰色に映る自分を見たら、色の奥深さに捕らわれたのだろうか、ぐしゃぐしゃに縺れていた糸の束が幾分かすうっと解れた気がした。
 いま、すべきことは分かってる。決まってる。
 自分の感情云々よりも、今自分に出来る事は、少しでも楽しいと思える時間を健悟にあげること。だからこうして此処に居るというのに、感情ばかりが勝手に先走って制御できなくなってしまいそうだ。
 健悟が来たら騒ぎになる。問題になる。そうじゃない。そうじゃなくて、ただ、健悟が誰かと親しくするところを見たくなかっただけだったのかもしれない。
 いま自分ができることは、「あんな奴も居た」って数年後には笑って思い出してもらえるような、思い出を残すこと。健悟がやりたいと思うことを尊重するべきだったのかもしれないと、自分本意な考えに嫌気が差してしまった。
「あー……や。なんか、連れてきゃー良かったなと思って、祭り。グラサンでもなんでもすりゃあバレねぇかもしんねぇしな」
「……」
 まぁ、夜にグラサンも充分目立つけど、と蓮は誤魔化すように笑う。
 未だ聞こえる太鼓の周りでは、今頃、武人が玲子に振り回されて一生懸命盆踊りに参加していることだろう。歩いて数分の其処には今から行けばきっと間に合う。此処で静かに聴いているだけよりも、健悟も、参加するほうが楽しいのだろうか。今更行って武人に怒られて、隣に居る人は誰かと訊かれれば、もう、素直に答えてしまおうか。
 残り少ない日数なのだから、自分とだけ居るよりも、皆で楽しく騒いだほうが健悟も楽しいのかもしれない。健悟に楽しいと、単純にそう思って欲しい。あっちに戻っても、楽しかったって一瞬で良いから思い出して欲しい。俺を、思い出してよ。
 健悟を独占したいだなんて馬鹿なこと、まるで小学生みたいだ。滑稽な優越感に浸るよりも、やることがある。健悟を喜ばせてあげたいと、そう思う。
 だから、蓮は和太鼓の旋律が聞こえる方角を指差して、浮かんだ閃きを表情に表しながら健悟へと言葉を掛けた。
「なぁ。健悟が行きてぇんだったらさ、いまから行ってみる? いまならまだ――」
 間に合うかも、と告げようとした言葉は、健悟から伸びてきた手によって阻止されてしまった。
「いい」
「……え?」
「いらない」
「…………」
 襲われたのは予期せぬ頑強な瞳、伸ばした人差し指を上から包まれた先は、自分の膝の上へとすとんと落とされてしまった。
 蓮の左膝の上、右手の上に置いてある健悟の左手。重なる小指で同じ指輪が小さくカチリ奮えた事実に改めて心臓が煩くなった。
 こんなときになって、今更になってようやく思う。世間一般の恋人が、同じ指輪を嵌める意味を。
 そうか。これひとつがあるだけで、こんなちっちゃい証が相手の手にあるだけで、……健悟ん中に俺が存在してるっつーそれだけで、……こんな、嬉しいもんなんだ。
 指輪を見るたびに思い出して貰えることが、領域を侵すことが、縛れることが、こんなにも嬉しいものだとは実感するまで思ってもみなかった。
 そんな事実がじんわりと胸底に広がった、そのとき。
「いいよ。蓮が居れば、それで良い」
 指輪に気をとられていると、上から花火よりも輝く甘い言葉が降ってきた。目をやれば見える少しだけ緩んだ口元と、偶に見る真剣な瞳に今まで勝てた例は無い。
 ……こ、いつ、……マジ、俺の気持ちに気付いてねぇんだよな?
 すんなりと疑問が浮かんでしまうほど、このタイミングで投げられた台詞を疑った。
 もしかしなくとも、悪友共を紹介することなく、自分と居るだけで充分に楽しいと思って貰えているのだろうか。こんなにもなにもない俺なのに、そんなこと。例え友達の立場といえどもこれ以上に嬉しい言葉はきっと無いに違いない。
「……ああーもう、だから、おまえはまたそーやって……」
「?」
「……んでもねぇよ」
 無垢そうに首を傾げる健悟から、ふっと視線を外して拗ねるように呟いた。
 狡い。欲しいときに欲しい言葉をくれる健悟が、本当に狡いと思う。
 与えられた言葉を都合良く受け取れば、たったそれだけでむずむずと心が飛んで行ってしまいそうな心地に陥ってしまう。
 人に言われる一言って、こんなに嬉しいものだっただろうか。なんでもかんでも頭の中で反芻してしまうものだっただろうか。
 誰かに自慢したいこの気持ちを人は惚気と言うのだろう、ああもう、これ以上、調子に乗らせるなよ馬鹿野郎。
「……」
 湧き上がる嬉しさを表現しようにもそんな語彙は持っていない、抱き付きたいのにそんな立場にも居ない、それならせめて、今この喜びを表現できる箇所なんて、未だ繋がったままの右手位のものなんだろう。
 健悟に拒否されないことだけを願いながら、蓮は重ねられた右手を翻して掌を上に向けた。真上にある健悟の手とは自然と握り合う形になり、体中の感覚が掌に集まってしまったかのように熱くなった気がする。健悟の薬指と小指の間に親指を侵入させて、確かめるように銀を撫でれば何故かそれだけで柄にも無く泣きそうになってしまった。
 友達として認めてくれる健悟に、これ以上何を望めば良いんだろう。
 きっと、いまが、俺にとっての最高地点なんだ。
 長い人生の中でたった数日間を共にするだけの男との、最高地点。



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