「相変わらず大盛況っすね……」
 蓮が小さく見せた苦笑い、それすら他者に悟られる事のない便利な人混みというものは、この田舎には現在一箇所しか存在しなかった。
 蓮と武人が相も変わらず下駄箱を抜けた、学校からの帰り道。体育館に漂う熱気を見つけた武人が気紛れに見て行こうよと誘ったことから、咄嗟に断る理由も思い付かなかった故の行動である。どこか浮かれ雑じりに勝手に進む足を叱咤しながら、進む場所はこじんまりとした体育館。
「…………」
 あのとき、健悟を好きになったと自覚した日から幾度もの星空を経て、それとなく足を遠退けていた体育館に来るのは酷く久しぶりな気さえした。
 自覚したからとはいえども、結局は何も変わらない毎日だ。健悟の言動一つに躍らされて、期待して、そんな筈は無いと抑制を掛けるだけの、何も変わらない毎日。
 誰も居ない星空の下で自分だけのものだと勘違いした張本人は、現在きっちりとしたスーツに黒髪を携えて皆のものへと成り代わっていて、その現場を目に入れたくなかったというのが本音だった。何も知らない幼馴染を責めることは憚れたが、それ以上に、“真嶋健悟”を一目見たいと思ってしまう自分が確かに存在していることは否定できなかった。
「やってるねー。暑いだろーに」
「……体育館に空調求めんなよ」
 しかし、ひょいと軽々しく中を覗き込むことが出来るのは背の高い武人だけで、不運にも発育の良い男子の後ろしか開いていない位置故に、蓮は少しの隙間からでしか中を覗き込む事はできなかった。
 小さな箇所から見える“真嶋健悟”には相変わらず笑みは浮かんでおらず、無表情だからこその冷酷さが滲んでいて、まるで触れてはいけない別世界のもののようだった。数十人居るであろう体育館内だというのに、いうまでもなく健悟の場所だけは正確に分かる。誰よりも存分に際立つ彼は相変わらずで、そしてそれを、格好良いと、素敵だと口々に讃える女子の群れも変わらない。何も変わらない、今までと同じ風景だ。
 それなのに、その姿を目に入れるだけで、なんだか泣きそうに、つきんと胸が痛んだ気がするのは気持ち一つの問題なのだろう。
 以前は、こうして眺めているだけの“真嶋健悟”を自慢したいような、あんなに凄い人物が友達だということが誇らしいというような清澄な心だったというのに、たかが気持ちひとつが浮き彫りになっただけで、感情は一転してしまった。
 欲しいと思ってしまったからこそ、知っているのが自分だけであれば良いのにと思ってしまう。そして無理だと端から自嘲を浮かべれば、余計に虚しくなってくる。
 真嶋健悟相手に、堂々と讃美出来る女子が羨ましいとさえ感じてしまうのは、数日前の自分ならば浮びもしない愚考だった。勿論誰かに「やれ」と言われても絶対にやらないのは性格の問題だけれど、性別の問題だけで告げることの出来た気持ちならばと、羨望して止まないのだ。

 ――もし、俺が女だったら、健悟に好きだって言えたんかな。

 浮かぶ思考は此処数日何度も頭に浮かんでいるもので、女々しい自分に嫌気が差すのも常套事だ。ぐだぐだと悩む事は大嫌いなのに、悩むだけの価値はある問題だと思う、告げればきっと嫌われるだろう想いを処理することが出来ず、ありえない空想に耽ってしまうに違いない。
「あーあ……」
 はあ、と蓮が深い溜息を吐けば、隣に居る幼馴染は「こっち来る?」と言ってくれた。きっと体育館内が見えないが故の溜息だと勘違いしたであろう彼に首を振って、蓮は再度、誰にも相談できない事項を頭に思い浮かべていた。
 このような靄の沈殿が加速するのみの状況を整理してみたとき、よく考えたら己の廻りに、“まとも”に恋愛をしている人間が居ないと気付いたのは、つい最近のことだった。
 宗像が頬を染める姿を想像する事は出来ず、羽生と武人が本気で誰かに固執する姿が浮かばない。医者と付き合う利佳が本当に好きで付き合っているのかも分からず、男を好きになるなんて、そんなこと、誰にどうやって相談していいのかも分からなかった。
 ただ健悟を欲しいと思うだけの感情が、出口も知らず身体の中を巡り回る。恋をして痛むなんて比喩表現、利佳の持っている少女漫画だけの話だと思っていたのに、そうではなかったらしい。尤も彼女はその勇姿を鼻で笑っていたけれど、今の自分ならば、悔しい事に涙腺が緩くなり枕を濡らしてしまうに違いない。
 頬を染めて格好良いと騒ぐ女子を見るだけで、飛び交う黄色い声を聴くだけで、得体の知れないどす黒い靄に覆われる汚れた胸中を知りたくはなかった。格好良い、確かに格好良い、当たり前だ、“真嶋健悟”が格好良くない筈が無い。だからこそ、自分なんかには到底手が届かないと実感することが辛くて、その雄姿を視界に入れたくはなかった。
 体育館から足を遠ざけていた理由など、至って保守主義な情けない言い訳でしかない。
 好きだと自覚したからといって、如何なる問題でもない。
 男同士なんて、報われない。
 分かっているのに、それでも家に出向いてくれる健悟が嬉しくて、最近では一分一秒が勿体無いと、夜遅くまで話し込んでしまっている。
 仕事で忙しいと分かっているのに、優しく話を聴いてくれる健悟に甘えて、貴重な時間を奪っている。
 おやすみという暇無く眠ってしまうのは、勿論毎日忙しい健悟が先で、それを責める謂れは無い。ただ、その無防備な寝顔を目にしていると、頑張っている健悟に甘えているだけの自分がとても嫌になってしまう。なんでこんな餓鬼に構ってくれるのだろうかと、俺はこれで良いのだろうかと、答えの訊く事ができない疑問ばかりが悶々と絶えることはかった。
 毎日懸命に生きている健悟と、進路も方向性も何も決まらないまま、ふらふらと怠惰に生きている自分。釣り合わないなどという当然のことは端から承知しているからこそ、この感情に気付かなければ良かったと何度も思った。
 今このときも、頑張っている人たちの中で一際輝いている、“真嶋健悟”という存在、廻りで騒いでいる生徒から紡がれる言葉、その一つ一つが余りにも大きくて、本当に、気付かなければ良かったと思う。
「しかしすっごい人だね、これ」
「……なぁー」
 武人からの言葉に相槌を打ちながら、視線は些細な隙間から“真嶋健悟”へと送り続ける。なにこれ、ストーカーみたいじゃないの、おれ。
 以前、旅館に行く前に健悟を此処で待っていたときはすぐに見つけてもらえたけれど、撮影が本当に忙しいのだろうか、今は此方を見向きもしなかった。此方を見ないなんて当たり前だというのに、そんなことに寂しさを感じている自分が可笑しいんだ。
 過剰に充実しているだろう健悟の人生の中で、こんな田舎は只の通過点でしかなくて、たかが「1」なのかもしれない。それでも、俺にとって此処は人生の全てで、「100」なんだ。
 この気持ちに気付く前、無意識に期待を抱いていた自分が酷く愚かだったと思う。沢山の人を魅了する力を持っている健悟が、沢山の人と接している健悟が、所詮自分なんかを相手にするはずがないのに。健悟が関わっている人たちの中から選ばれるような、そんな抜きん出て良い処なんて、自分に見つけられないのに。
 分かっていた筈なのに、なんて馬鹿なんだろう。
 自覚したのなんて数日前なのに、なんでこんなに加速ばかりしていくんだろう。
 深みに嵌らない内にと思うならば、引き返すのは今なのかもしれない。これ以上健悟を見れば、話せば、触れれば、もう今居る場所に戻ってくることは出来ない気がした。
 ただでさえ数日後に居なくなるというのに、そのときの痛手を抑えるには、いまこのとき、これ以上関わらないのが正解なのだろう。
 撮影場所に近付くのは今日が最後、そう決めれば、小さい視界に映る健悟が、少しだけぼやけた気がした。

 もう、本当に、気付かなければ良かった。



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