「おつかれさま」
 板張りの廊下からひょっこりと顔を出した健悟を見て、蓮が真っ先に思った事は、余りにも不釣合いだと、唯その一点だった。
 見た事の無い髪の色に、嗅いだ事の無い香り。纏うオーラ。
 誰もが羨望するような容姿だというのに、装備しているものは何週間も前の廃れた新聞紙という懸隔。何百万もするような猫でも抱えているほうがよっぽど似合っている。しかし、己の手中に持っているザルを見下ろせばその用途は明確であり、来客の筈が母に使われている事がはっきりと分かって、一体どんな力関係なのだと危惧を抱いてしまう。
「これどうしたらいい? 俺も手伝うよ」
「あ、どうも……」
 床に置けば汚れるとの理由で、持っているしかないザルを握る手が一瞬だけ力が抜けそうになった。笑顔の儘、“手伝う”と直接的に言われたのは初めてだったからだ。
 仕事をさせる母、押し付ける姉、放っておいてゲームでもしている遊びに来る友達。そのどれもと正反対に、にっこりと微笑みながら腕捲りをする男を、蓮は初めて見た。
(と、都会の男は気もつかえるのか……)
 これがモテる秘訣か、とクラスの女子を思い出しながら一人頷いてみるも、自分が優しく微笑む姿を想像する事は出来なかった。
「――じゃあ此処、その新聞紙広げてもらって良いですか」
「ん」
 床に新聞紙を広げ、その上に、旬の野菜がところ狭しと並べられているザルを置く。
 数キロほどあった食材から漸く開放された故、手首を回しながらも溜息が漏れるのは仕方のない事だった。そのうえ、大食漢の父親を思い出し、もう一度炎天下の中へ逆戻りしなければならないと思うと更に憂鬱になってくる。早い所終わらせよう、とザルにある土塗れの野菜に手を掛ける、と。
「わーお、でろんでろんだねー」
 視界に、更にもう一本の手が乱入してきた。
 自分が差し伸べた手は、野菜まであと数センチといった空中で止まっているのに対し、長身痩躯に見合うすらりとした手はしっかりと土塗れのじゃが芋を握っている。
 シルバーリングが幾つもついたお洒落な指が野菜を握っているということが、酷く可笑しく、似つかわしくないと素直に思った。
「いや、いいですって、俺が……」
「えっ? なんで? なんか特別な扱い方とかある感じ?」
 しかし、本人は汚れると云うことを気にするよりも、何か扱いを間違ったのかと焦っていて、観点がずれた見解にこっちが驚いてしまう。
「そうじゃなくて、手、汚れるし……」
「? 変な事言うね、汚れたら洗えばいーじゃん? 男は汚れてナンボでしょー」
「……」
 泥遊びなんて言葉は無縁だろう眉目秀麗な人間が、自らの手を汚し、次々と野菜をザルから新聞紙へと移して行く。
 汚れる事を厭わない洒洒落落とした健悟の態度は、ほんとうにとうきょうじんなのか、と素直な疑問を蓮の頭に過ぎらせるには充分な出来事だった。
 ひょい、ひょい、と次々に野菜を取り出す健悟の手は既に汚れ、指が茶色く変色している。
「……健悟さん、泥団子とかつくったことあります?」
「なに急に。やったやった、幼稚園のころとかね、本気んなって」
「……」
 なつかしー、と、思い出すように笑った健悟を見て、蓮は更に眼を丸くした。
 ……泥遊び。こんな綺麗な人が、指を汚して、泥遊び……。
 その姿を想像することがあまりのも困難で、蓮は首を傾げるしかない。
 東京人は汚いことや汚れることが嫌いで、田舎を馬鹿にしていて……――己の持っていた理念に、少しのヒビが入った瞬間だった。
「これで終わり?」
「え?」
 健悟に目をやれば、野菜は全て新聞紙へと移動されていて、ザルの底には土が数粒残っているだけの状態だった。
「あ、すんませ、やらして……」
「いーって」
 全部任せてしまったというのに、全く気にしていないというように笑顔を向けられ、少しの罪悪感が募る。
 せめて最後だけはきちんとやろう、と、新聞紙を二つに分けて、野菜を一つ一つ見ながら二箇所に分けていく。
「なんで分けてんの?」
「? これはおれらの夕飯、こっちがご近所さんとかに配るやつ。玄関に置いとくの」
「おおっ……!」
 なにをあたりまえのことを、と蓮が答えるも、言った途端に健悟は目を煌かせ、興味津々に覗きこんできた。
「?」
 楽しそうに作業を見守る健悟に疑問を抱きながらも、蓮は仕分けを終え、新聞紙を纏める。
 ひとつは玄関先に包んで置き、もう一つは、台所へいる母親の元へと運ぶために。
「こっち。置いてくるから、ちょっと待っててください」
 蓮が新聞紙を指差しながらそう言うと、健悟は楽しそうに手を振り見送った。
 そして、蓮が去った後。健悟はひとつだけポケットに仕舞っておいたリングを指に嵌め直し、変わらず綺麗なままであるそれに安堵していたことは、蓮には気付かれないままだった。





 一方、蓮が短い廊下を裸足で歩き、キッチンに到着すれば、迎えてくれたのは母親の背中と、漂う出汁の匂い。まな板をちらりと確認したところ、どうやら今日は滑子の味噌汁らしい。
「ああ、おつかれ、ありがとう」
「ん。あとなにもってくんの?」
「いーよ、好きなの適当で。あわせてつくるから」
「……へーい」
 結局行くことになんのね、と蓮が溜息を吐くと、その様子を見た睦は目を細め、微笑みながら口を開いた。
「どう、健悟は」
「は? どうってなに」
「んーん、べっつにー」
「……」
 なんもないならいーの、と意味深な言葉を投げられ、蓮は眉を顰める。何が言いたいの、と問い直しても、別にー。と同じ言葉を繰り返すのみで、母親の性格上これ以上追究しても意味が無い事を知った。
 仕方なく、唇を尖らせながら再び板張りの廊下へと踵を返したものの、先程の問い掛けは明らかにおかしいだろうと腕組みしてしまう。
(どう、ってきかれても……)
 知り合ったばっかりの人間にどうもなんもなくね、と、自問自答し俯くと、ふと、茶色に汚れた手が視界に入ってきた。
 茶色い指。
 ごつごつした指に嵌っている、茶色に染まったシルバーリングを思い出し、足を止め考え込む。
 自分は慣れているからなんとも思わないものの、健悟は汚いと思わなかったのだろうか。東京人だというのに、汚れる事を厭わなかったり、泥遊びをしていたり、俺なんかにも、優しかったり……。そう考えてみると、「東京人」と云う存在は、思っていたモノと相違していることに気付いた。
(……なんか、おもったよりも、ふつーなんだ、な)
 今なら、母親からの、“どう”と云う問に対し、曖昧になら答えられそうだと思う。
 なにからなにまで、違うものだと思っていた。
 しかし、初めて見る、東京人の存在は――。
 蓮は、茶色くなった手をぎゅ、と握り、再び沸きあがる好奇心を引き連れて足を進める。
 明かりの漏れる玄関は、いつもとはちがう、爽やかな香りがした。
 蓮に気付いた健悟は、「おつかれー」と人懐っこい笑顔を向けてくる。漂う匂いも見た事の無い髪の毛も、見た目が違うからと云って一線引いてしまった自分に、蓮は今更ながら失望した。
 健悟の指にあるリングが一つだけ増えた事に、蓮は当然気付かぬまま、大人しく待っていた健悟の前に屈み、靴を履く。いつもはサンダルを引っかけるだけだというのに、今だけは余所行きの靴に足を通した事は、田舎者なりの小さなプライドだ。
 履き慣れない靴の爪先を叩き、慣らしていると、ふと、後ろから、すん、と鼻の鳴った音がした。近い場所で聞こえたそれに反応して振り向けば、健悟は、蓮の首筋の近くに鼻をあてている丁度そのときだった。
「、ちょ、なんすか?」
 慌てて健悟から離れ自分の首筋に掌を当てる。何かあるのかと思ったが、そうではないらしい。
 いきなり足を踏ん張ったからかもしれない、履き慣れない靴からじんわりと、痺れが走った。
「なんかさ、蓮くんあれだね、太陽の匂いすんね」
「タイヨウノ、ニオイ?」
「ニオイっつーか、んー、ぽかぽかしてるってこと」
 駐車場同様、すん、と鼻を鳴らしてみるが、自分の匂いなんて分かるはずがない。
 むしろ、より一層強く漂ってきた香りに憧れを抱きつつ、唇を尖らせる。初めて嗅ぐ香りは新鮮で、格好良く、羨ましい。そんな人間に褒められても嘘か嫌味にしか聞こえなかった。
「……ばかにしてんスか?」
「ええっ、ちょう褒めてね?」
「おれはあんたみたいなカッコイイ匂いのがいい」
 いじけたように唇を尖らせた蓮を見た健悟は、恰好良いという台詞に小さく反応を見せたが、そうじゃない、と首を振り、自分の手首を鼻に寄せ鳴らしてみる。
「……こんなん人工的じゃん」
 しかし、複雑な顔をして首を傾げてしまった。
 そして、もう一度蓮の首筋へと近付いて、

「――うん。コッチが天然、いーにおい」

 言葉と同時に、柔らかい笑顔を向けてきた。
 それは、蓮がこのあたたかい土地で見てきた誰よりも優しいものであり、玄関の扉から差し込む光も相俟って“綺麗”としか表現できない。
「っ、」
 蓮は小さく後ずさりして、久しぶりに歯を食いしばった。以前、コンビニに行く坂を武人と全速力で上ったときにも歯を食いしばった経験があったが、如何考えても今回との比ではない。比べるまでも無い。
 男の自分でさえダメージを喰らう蕩けるような笑みなのだから、此れを女の子相手に向けた場合のダメージは計り知れないのではないだろうか。
(鼻血出して倒れんじゃねぇの……!)
 健悟から目を逸らし、そして、同時に気付いた。
 顔が麗しいと云うそれだけで、健悟にとっては小さな言動でも、第三者には大きな影響を与えられるということに。
 現に、目の前には何事も無かったかのように鼻歌を歌いながら、良質そうなスニーカーを履く健悟が居る。蓮がいくら心臓の旋律を乱しても関係無いと言わんばかりに。
 仕方が無いだろう。此れほどまでに綺麗な顔など見た事も無いというのに、微笑んだ挙句、香水もなにもない蓮なんかに対して、お世辞とはいえ褒めてくれた。
 一挙一動でどれだけの女を泣かせて来たのだろうか。都会のオトコだからタラシみたいなんじゃない。健悟だから、タラシみたいに見えるのだ。そして、モテる秘訣と思われた先程のやり取り、都会のオトコだから気が使えるんじゃない。健悟だから気がつかえるのではないか、と、だんだん、蓮の脳内で情報がすり変わっていく。
「……ホ、スト……?」
「ん?」
「い、いやなんでもない、デス」
 蓮は、不覚にも見惚れてしまった自分を悔いながら、再びざるを持ち炎天下へと足を踏み入れた。
「え、ちょ、待ってよ、俺も行くって!」
 足先からの痺れが、じんじんと体中へと響いていく。
 後ろから着いて来る男前に、世の中不公平だ、と不満を抱え、文字通り蓮は外へと飛び出した。

 東京の奴は皆こうなのだろうか、と疑問に思ったところで、真っ先に出てくるのは否定の言葉だ。
 東京人が普通なのではなく、健悟が特殊なのかもしれない。
 特殊と特別の差が縮まるのは、もう少し。
 肝胆相照らす仲になるのは、真夏の太陽が眩しく、今以上に青い空が広がる季節のことだった。



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