「―――行った?」
「たぶん」
 健悟は、窓から見える蓮の背中に焦点をあてながら、睦からの問いかけに曖昧に答えた。
 窓に見えるは、緑。
 無機的なビルに埋め尽くされた光景とは程遠い其れを見て、癒されない者など居ないだろう。
 初めて見る田舎の風景に、此処が蓮が見てきた世界なんだと思うだけで心臓が煩くなる。耳障りな蝉の音も、脱ぎっ放しのパジャマも、床に投げ出されたPSPも、その全てが蓮の日常なのだと。その日常の中に、自分が存在しているのだ、と。
「あー……マージ緊張した」
 過ぎ去った一連の出来事を思い出すだけで、じわじわと込み上げるモノがあり、健悟は大きく溜息を吐いた。今になって実感する。まさかいきなり本人と御対面できるなんて上手い話があるとは思わなかったから、自分がどんな行動を取っていたのかさえ思い出せない。
 なんか変なことしてねぇよな、なんも言ってねぇよな、と考え出したところで、自分の思考に嫌気がさした。
「あー、もうほんと、驚いた。久し振り、で良いのよね?」
「あ、うん。ね。お久し振りです」
「知ってはいたけど、実際見るとでは大違いねぇ。やっだわぁー、すっかりいい男になっちゃってー。変わりはない?」
 水が流れるかのようにさらりと放たれた一言。
 笑いながら言ったその台詞でさえ、今の健悟にとっては重大な一言に思えて、断固たる決意と共に返事をする。
「――もちろん。俺、そのために来ましたから」
 ずっと、欲しかったものはひとつだけ。
 根底は変わることなく、此処から、今日から始まるのだと思うと若干の緊張が走った。
「……よっく言う」
 それが伝わったのかは分からないけれど、睦からは相変わらずの柔らかい微笑を返されて、やっぱり安心してしまう。
「事実っすよ。おれ、欲しいものは何してももぎ取る主義ですもん。知っているでしょう?」
「あらあら、こわいこと」
 怯える意味合いの台詞の筈なのに、睦の眼は完全に笑っていて、面白がっている以外に見えない。
「まぁ、あの子次第ですけどねー」
「……」
 元々此の人と二人きりな時点で些かの緊張があるものの、加えて要らぬ一言まで加えられ、健悟は押し黙る以外に方法が見つからなかった。
 何かこの人の度肝を抜かすようなことは出来ないものか、完全に面白がっているこの人の想定していない返しは出来ないものかと、唇を尖らせながら考えていると、健悟が言葉を発する前に、邪悪なくせに柔らかでもある笑みを向けられた。ちくしょう、ほんと蓮そっくりだな。
「それで、どうだった? 久しぶりの再会は」
「……誰の所為っすか。貴女ですか、利佳ですか」
「あらやだ、なんのことかしら?」
 楽しそうに首を傾げながらの恍けた素振りに、意図せずとも眉間に皺が寄ってしまう。怒らない怒らないー、と、頭を撫でられる子供扱いのそれ、にも。
 当たり前だ。
 ずっと期待していた再会が、只の泥棒扱い。蓮にとっての初対面で見せられた不信感たっぷりの視線を、健悟が忘れる事は一生無いだろう。
「……どうっすか、その後、蓮は」
 敵意剥き出しの蓮の姿を思い出したくなくて、態と話を変えてみる。其れが分かっている癖に話に乗ってくれるのも、睦の優しさのひとつなのだと健悟は思う。
「どうもこうもないわよー、全然変わんない。何度も家出なんてしてくれちゃってねー、やだやだ。そんなに此処が嫌いなのかしらねぇ」
「まさか。思春期なんすよ、思春期」
「長い思春期だこと。こっちは気が気じゃないわよ」
「ははっ」
 健悟が笑うと、睦は溜息を吐いて、机上にあったスーパーの袋を持ち上げた。
 中身がぎっしりと入って、あまりに重そうな二つの袋を細い腕で持つものだから、当然横からその袋を奪って加勢した。一瞬眼を大きくした後で、「ありがとう」と笑う顔が愛らしく、蓮が笑ったらこうなるんだろうな、と云う姿が安易に想像できて健悟まで笑顔になってしまう。
 人様の母親の背中にあたたかい気持ちを覚えながら、すっかり手ぶらな睦に着いて行く。襖を開けて、次の部屋へと。予想通り畳の部屋。誰かが来ると想定して居なかったのか、所々に脱ぎっ放しの服や読みっぱなしの漫画が散らばっていて、其等がまた生活観を募らせ、愛しくすら感じる。
 畳の部屋を抜けると、廊下があって、その先に見えるキッチン。
 漸くフローリングへと変わった廊下に置いてあるスリッパを適当に履いて、一歩ずつ、一歩ずつ、確かに。蓮のテリトリーを侵して行く自分の足に一種の快感すら覚える俺は変態なのかもしれない、と健悟は思った。重い荷物を握りしめ、別にいい、と。それほど待っていた、今日、この日を。
「あんたはなに、結局どれくらいこっちに居るの」
 キッチンのテーブルに荷物を置くと同時に、睦が健悟に話しかける。
「どうっすかね、多分1ヶ月位かな?」
「1ヶ月……そうね、丁度良いわ。あの子も来年には受験生だし」
「進学?」
「当人のやる気次第」
「ふは、あいつ東京行きたいってゴネるよきっと、どうするんスか?」
「それは貴方のやる気次第」
 袋の中身を確認しながら、冷蔵庫行きの選別をしている睦の表情に、ふ、と笑みが浮かぶ。
 嫌な笑い方ではない純粋な其れに、これから起こるであろう蓮との出来事を奨励された気がして、緩む口元を右手で覆った。
「あらいやだわ、利佳が居るってことも忘れないでね」
「……」
 しかし、奨励、と云う言葉が一瞬で崩れ落ちるかのような一言が耳に届き、一瞬にして意気阻喪してしまった。
 ホホホ、とワザとらしく笑う睦を見て、健悟の脳裏には最後の砦とも言うべき女帝の影がチラつき、嫌な思い出だけがだんだんと蘇って来る。
 ――ああ、なんか、いたよね……そんな人……。
「へぇ、忘れてたんだ? 言ってやろ」
「は? え、いや、まさか――」
 苦笑いしつつも、慌てて言葉を紡ごうと、笑顔を取り繕った、その瞬間。
「かーちゃぁーん! もーもてないィー!」
 玄関から大きな声が聞こえて、睦と顔を見合わせてしまう。
「ねぇー!」と耐えない声を聞きながら壁にかかっている時計を見れば、長針が結構進んでいて、蓮が畑から帰ってきた事を漸く知る。
 ザル一杯に野菜を積んで来たのだろうか、疲れを隠さずにやさぐれたような声だ。
「はいはーい、ちょっと待ってなさーい」
 それでも、この様なやり取りは日常と化しているのか、睦は別段焦る事も無くゆったりと返事をした。それに対してまた、「あーい」と気の抜けたような、何も考えて居ないような可愛らしい声を拾うことが出来て、意図せずとも背筋が伸びてしまう。過去に自分を猫背と罵った奴等全員に見せてやりたい、この勇姿。
「んじゃ、これ。持ってってあげて」
「ん? うん」
 ガラスの戸棚に映る己の姿勢の良さに小さく笑った瞬間、手中に無理やり新聞紙を掴まされた。意味が分からず睦を見れば、顎で刳られ、その方向からは「あぢぃー」と嘆くような声が絶えず聞こえてくる。
 ……これ持って行けってこと? なんで新聞紙?
 首を傾げるも睦から明確な答えを貰える事は無く、「はやく行ってやれば?」としたり顔で返された。くそう、楽しんでやがる。
 夕食の準備をするのか、睦はそのままキッチンの奥へと向かってしまい、健悟に残されたのは、廃れた新聞紙と睦の背中だけ。
 睦の横にある窓から日差しが舞い込んで、その背中が、キラキラ、キラキラ、光って見える。逸る気持ちを抑えながら大きく息を吸い、ぎゅっと、手中の新聞紙を握り締めた。
「……睦さん」
「なぁに」
「――お願いします、一ヶ月間」
 宣戦布告でも、協力要請でもない。これは純粋な、俺の気持ち。
「……ええ、こちらこそ」
「じゃあ、行ってきます」
 睦の背中しか見えていないといえども、健悟は深く礼をして、その場から離れた。
 ばたばたばた、短い廊下を駆ける健悟の耳に、キッチンで起きる騒音がどんどん遠退いて行く。
 だから。
「……いってらっしゃい」
 その一言を、彼女がどんな想いをもって発したのか、健悟は知らない。



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