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開け放ってからしまった。と思う。誰もいないとすっかり合点したせいで人影が見えて思いっきり嫌な顔をした自信がある。まずったなぁ。とりあえず慌てて顔を引き締めて会釈をしてみる。このまま引き返したのでは失礼だろうし、とりあえず。…しかし、だ。このあとはどうすればいいですか侯爵様、なんて、こんな時ばかりはその姿が隣にあってほしかったと渇望する。
そうこう頭の中でぐちゃぐちゃと考えるうちに、向こうが「気分でも優れないのですか」と話題を振ってきてくれた。感謝である。
「いえ、このような場所は慣れないもので、少し風に当たろうかと。」
「そうですか、始まったうちはまだ騒がしいですものね。」
それだけ言ってフイと視線を外へ戻してしまった女性の隣へ移動する。人がいたのではゆっくりできないと思ったものの、口をきゅっと引き締めたままの彼女は会場内の令嬢のように品定めするかのような視線を投げてくることはなかったし、貴族同士の社交場に出て行こうとしないところをみると、もしかしたら既婚の女性が本当にただ社交界に顔を出しただけなのかもしれないと思ったからだ。
ようやく婚活の荒波から抜けられたかもしれないと思うとほっとする。
手すりにもたれて数分、沈黙の後に彼女が口を開いた。
「差し出がましいとは存じておりますが、戻らなくてもよろしいのですか?」
「…ええと、もう少し…。」
まだダンスは始まってないから大丈夫なはず。侯爵様も今日は諦めていたようだし、後でぐちぐち言われるだろうけどそれくらいで済むなら余裕だ。
「…貴女は?」
戻らなくてもいいのだろうか、もしかしてオレがいるから戻るに戻れないのならば、それは悪いことをしたなぁと、寒空の下にむき出しの彼女の白い肩に申し訳なくなる。ショールを羽織っているけれど、ひらひらしたそれがどの程度の防寒になるかなんて男のオレにはさっぱりわからない。
「私は、まだしばらくここにいます。」
「なら、ワインでも持ってきましょうか。身体が冷えそうですし。」
「………はぁ。」
ん?何かおかしなことを言ったか?
「貴方は私をご存知ないようですので申し上げますが、あまり私とおりますと、…私も今大変に良縁を探しておりますので、少し期待してしまいますよ。」
「うげ…」
「…失礼です。」
「あ、いや!その…、すみません…。でもその割に会場から遠ざかってますよね。」
「だから、貴方が私をご存知ないからそう仰るのです。」
「はぁ」
やれやれ、みたいな言い方に沸点の低い頭(自覚アリ)はカチンとくる。よくわからないが貴族にも色々あるってことだろうか。侯爵様なら分かるかもしれないけど。
「すみませんね。田舎の平民上がりなもので。」
「仕方ありません。時の英雄様からすれば私なんて田舎の領地を持つにすぎない落ちぶれ貴族ですから…。」
嫌味、とも取れるような彼女の台詞は、常ならばシンを煽る材料になり得たかもしれない。しかし、なぜだろうか、この良心を抉られるような申し訳なさは。それほどに彼女の表情は悲壮いや、諦観を秘めていた。
「………。」
「………。」
「なんか、すみません。」
「いえ、お気になさらず。」
「縁組み…諦めたんですか」
「えぇ、まぁ。」
勿体ないなァ、とその横顔に思う。スッと通った鼻筋に柔らかそうに色付いた唇。白い肌に影を差す長い睫に縁取られた瞳は碧眼か。まるでビスクドールのようだと改めて彼女の容姿を確認して、少し恥ずかしくなって目をそらす。
「やっぱ、ワイン持って来ようか、じゃなくて、持ってきましょうか?」
何故か火照った頬に当たる風が改めて冷たいなと思ったのだ。自分はいいのだが、彼女の寒々しい姿にもう一度提案してみた。
「…あまり、お酒は得意ではありませんので。」
それよりも、と彼女は続ける。
「やはり、早くお戻りになった方がいいです。あらぬ噂が回ります。ただでさえ、このような社交場は口さがないのですから。」
ちらりと後ろをかえりみると、仕切りのカーテンはひらりと靡き、思っていた以上に中の様子は見て取れる。なぜオレは出てきた時に、このカーテンを開け放った時に気づかなかったのか。中からも外の様子は見えているようで口元を覆った貴族令嬢がこちらの様子を詮索し合っているようだ。
「これは…、貴女にも悪いことをしました。でもこれならいっそのこと、誤解されてくれませんかね。」
なんて、来て早々に疲れてしまったものだから、比較的…いや、比較するまでもなく居心地のいい彼女の隣で頭を抱えてダメ元で頼んでみる。
「………覚えていますか?私も会場内の方と同じです。期待してしまいますよ?」
「………あぁ」
そういえばそんなことを言っていたな。
そんな風に、対してその言葉を請け負うでもなくうなだれるシンを、彼女はちらりと一瞥して、スッと姿勢を正し、こほん、と咳払いをひとつ。
なんだろうかと視線だけ上げて彼女を見やる。
「誤解ではなく、真実にしてくださるなら、」
彼女の青い瞳とかち合う。
さっきまで無表情に、どこか冷めた雰囲気をたたえていた彼女が視線に熱を帯びせたのがわかる。つい、身体を起こした。
「…私はこのままで 構いませんが。」
いかがですか?と小首をかしげて口元に笑みを乗せた彼女と、向き合ったシンの間に、
「…………。」
「…………。」
沈黙が降りた。
「……何か言ってくださらないと示しがつかないのですが。…いえ、違いますね、申し訳ありません。えぇ、わかっています。似合わないことをしました。」
はぁ、と息を吐いてほんのり色づいた頬に手を添えてそれを隠してしまった彼女は、やはり慣れないことはするものじゃありませんね。ときゅっと上がっていた口角を手でほぐしている。
あぁ、なんてことだ。
シンは胸に手を当てる。
バクバクと騒がしい自分の心臓は戦地にいるときの、緊張感の方がまだましだ。
真実にしてくれるならと妖しく笑んだ顔に目を奪われた。息すら止まったかもしれない。彼女はそれをどう間違えたのか似合わないことをしたと恥いるようだが、その仕草すら見事に嵌った。
凄くタイプだ。
「あ、あんた、名前は?」
敬語もくそもないが、地が出たのは今更な気がしないでもない。キラに聞かれたら咎められたであろう。しかし、今はいないんだからそんなこと気にしなくていいじゃないか。不思議そうにこちらを見る彼女に早口にシンは続けた。
「あんたの名前、まだ聞いてなかっただろ。あ、オレはシン・アスカ。ええと、家督?は一応爵位を貰ったし、侯爵家のお抱え騎士みたいなもんで、いくつか領地も持ってるし…」
「…はぁ、そのようですね。」
「知ってたのか?」
「キラ様といらっしゃるお姿を拝見しましたので、そうではないかと。此度のご活躍は聞き及んでおります。」
なんだ、知っていたのか。そういえば彼女が時の英雄とかちらりと言っていた気がする。彼女はその活躍に何か思っただろうか。特に興味もなかったのだろうか。
何か思うところがあってくれればいいなと思う。他人がどう思おうが、誉め立てようが自分には関係ないと思っていたが、彼女に関しては気になった。
「で、あんたは。」
「え?あぁ、レイ・ザ・バレル と申します。」
領地は東端の島がどうとか言っていたけれど、彼女の名前を聞き出したシンにとってはそれらはただの付随品となってあまりきちんと聞いていなかった。
レイ、か。凛とした佇まいの彼女にはピッタリの名だと感じた。
名前を聞き、揚々とした気分でシンは会場を覗く。残念、ダンスはもう始まっていた。これはホールにシンの姿がないことにキラが怒っているか、呆れているか、たぶん呆れているだろうなと当たりをつけて、ワルツの音楽に耳を傾ける。これも残念。実は、シンが完璧に踊れるのはワルツだけだ。きっと続けてワルツの演奏はしないだろう。他はまだ自信がない。それでもなんとか形にするだけならできるが、レイの前でスッ転んだりなんて避けたいから、ダンスのお誘いは控えようと思った。
「レイはこれからどうするんだ?」
「帰ります。長くいても同じですから。」
「…田舎の成り上がりでも、爵位があれば貴族はいいのか?」
「はい?」
「ほら、家名とか、血筋とか。いろいろあるだろ。貴族には。キラは適当なことばかり言うからさ、騙されてんじゃないかって。」
「…アスカ様ほどであれば気にすることもありませんでしょう。それほどの事をされましたし、勲功爵は立派な爵位です。」
「そっか…」
なら、大丈夫か。
そもそもレイだって、真実に、だの期待だの言っていたし…
「あの、もうよろしいですか?…迎えが来たようなので、失礼致します。」
「えっ、帰る?」
「長くいても 同じですから。」
先ほどと、同じ台詞だ。それは縁組みを諦めたと言っていた声音と同じだったと思い至る。
「帰る、ってまさか、もうその 東端にあるっていう領地に?」
「そうですね、もうどこに顔を出しても同じでしょうし。」
「結婚は!?」
レイは訝しげに眉を顰めた。
「国に、縁組みの話が無かったわけではないのです。貿易商の方と、お話がありましたので。」
それって、どうなんだ。そっちと結婚した方がいいのだろうか、なら何故わざわざこんな所まで…?
やっぱり、貴族はわからない。
「もう、よろしいですか?」
「あ?…あぁ。うん。」
それでは、失礼致しますと退散するレイは早かった。あっという間にホールで主催と思しき男と挨拶を交わして滑るように出て行ってしまった。迎えと言っていた馬車はあれだろうか。自分が乗ってきたものよりいくらか質素なイメージを受けたそれが下で待っているのをバルコニーから見下ろした。
結局、相手を探していると言っていたレイはその相手が見つからなくて、国に帰るという。
国に帰れば相手がいる。
では何故相手を探す必要があったのか……
「わからん…。」
ついぼやく。
しかも誤解じゃなくて真実に、ってあれはオレを誘ったんじゃないのか。結構本気にしたけど、あっさり帰られたってことは冗談だったのかな。遊び相手を探してたのか?
「そんなことするようには見えなかったけど…」
引き止めた方が良かったのだろうか、けれど、貴族には面倒な形式や順序がある。当人だけで決められるようなことではないのかもしれないし…、
「………めんどくさ〜…。」
これだから嫌なのだ。お偉い様は、なんにも思うようにいかないのになんでああも、にこにこ上辺だけであろうと笑っていられるのだろうか。
馬車に向かうレイの頭が見えた。あれに乗って、今から港町に向かうのだろうか。今日はそこで一晩過ごし、明日には船に乗る。そうすれば日暮れ前には着くだろう。そうして、国にいるという貿易商と結婚するのか。
「なぁ!レイ!」
ビクリと肩を揺らしてレイは此方を見上げた。まだいると思わなかったのだろう。少し驚いている。
「まだ社交界なんて分からないことばかりなんだけど、いいなって思った子にはどうすればいいのかな。」
ホールは音楽で溢れているけれど、仕切られたバルコニーから外は静かなものだ。流石に此方はホールの音が近くて聞き取るのが不便かもしれないから、レイの声を聞き漏らさないようにじっと耳を傾ける。
「…ダンスに、誘ってみては?」
律儀に答えてくれたレイに、それは駄目だと首を振る。
「ワルツ以外自信がないんだ。それに、もう帰っちゃう。」
「…でしたら、設えた品を贈ってみる、など…」
「しつらえた品?」
「その女性に似合うなと思う物、例えばドレスであったり、そういうものを、贈ってみては。」
「あぁ、なるほど。たしかに、貴族ってそんなかんじだな。」
「はぁ、そう ですか?」
よくわからない。そんな顔がどこか幼く見えて可愛いなと思う。やっぱり、どうにも遊びの相手を探していたようには見えないのだ。
「ありがとう。そうしてみるよ。気をつけてな。」
「はい。…うまくゆくといいですね。」
そこで普通ならば笑顔のひとつでも見せてくれるものじゃないのかと思ったが、レイは口元を閉めたままの、出会った時と同じ顔で一礼して馬車に乗り込んでしまった。
レイにしつらえた品を贈れば、また笑ってくれるのだろうか。そうであればいいなと思い、ホールで呆れているであろう侯爵を探すことにした。この手の相談は、癪だけれど、彼以外思い浮かばなかったのだ。
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