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輪廻の残り香
輪廻の残り香(サンプル)
 
 貴方は運命というものを信じますか?

 ああ、いきなり失礼。こんな質問を突然されたら驚きますよね。まぁ、でも少しだけ私の話にお付き合いください。これが私の最後のわがままですから。
 話を戻しますね。私は運命を信じています。しかし私が思う運命は、アルファとオメガの間に結ばれる番とは少し異なります。確かに世間一般ではあれが運命とされていますが、私はその考えに懐疑的です。もちろん番という関係が強い愛と絆で結ばれていることは重々承知です。しかし、あくまであれは肉体的に惹かれ合っているにすぎず、肉体は悲しいことに滅びるものです。つまり永遠に存在するものではありません。
 私は、運命とは永遠に存在するものだと思うのです。ですから肉体などという脆く儚いものに準拠しているものを運命と呼ぶのは、私の考えとしては、些か疑問なのです。
 それでは私は何をもって運命というものを信じているのか。それは魂です。
 ……今、貴方は思いましたね? 私が変な宗教にそそのかされてしまって、おかしくなったのだと。
 ご安心ください。私は変な宗教の教えに傾倒しているわけではありません。ただ、今から私が話すことはあまりにも現実離れしているため、貴方はきっと話の途中で何度も疑問を口にしたくなるでしょう。ですが、そこはどうぞ堪えてください。最後には全ての疑問が氷解するはずです。ですからどうか最後まで口を閉じてお聞きください。

 これはずっと昔に父から聞いたことなのですが、ここから離れた東の方にある国では「転生」という考えがあるそうです。いろいろと解釈はあるようですが、簡単に言うと、死後、魂が新たな肉体の中に生まれ変わる、というものです。
 貴方の言いたいことは分かりますが、まぁ、とりあえず最後まで聞いてください。
 私の父は、昔、生まれ変わりを体験したことがあるのです。もちろん生まれ変わったのは父ではありません。生まれ変わった当人が生まれ変わりを主張しても、第三者にとっては眉唾ものです。生まれ変わったのは、父の恋人でした。
 父はこの国の西にある小さな村で生まれ育ちました。父にはオメガの恋人がいました。彼女は生まれてすぐ死んだことになっていました。年々数が減ってきているオメガは稀少であり、オメガ狩りなどという蛮行が横行する世の中です。無理もありません。
 彼女は家の中にずっと隠れて暮らしていましたが、父と偶然出会い、あっと言う間にお互い惹かれ合ったそうです。父はアルファではなく、ベータでしたが、二人の間には番のような、いやそれ以上に強い絆があったと言っていました。
 しかし、幸せな二人はオメガ狩りによってあっけなく引き裂かれてしまいました。オメガに飢えた貴族のアルファが送り出したオメガ狩りによって彼女がさらわれたのです。父も必死に彼女を守ろうとしたそうですが、そこには数と力に絶望的なほどの差がありました。オメガ狩りの太い腕に捕まった彼女は、最後、こう言い残したそうです。

 ――待っていて! 私は絶対貴方のもとへ戻ってくるわ!

 しかし、彼女は帰ってきませんでした。噂によると、アルファの男の家で自ら命を絶ったそうです。彼女は還らぬ人となりました。
 失意に打ちひしがれていた父でしたが、数年後には親が持ってきた少々強引な縁談で、ベータの女性と結婚しました。二人の間には子が二人生まれました。それが、私と二歳上の兄です。
 ベータとベータの間に生まれながら、兄はオメガでした。オメガ狩りの強大さと執拗さを身を持って知っていた父は、兄の存在を世間から徹底的に隠しました。産婆には口止め料を渡し、さらに念を入れ遠くの村へ引っ越しました。兄の存在は自分の親にさえ言わず、他に知っているのは母と私だけでした。
 最初は仲良く家族四人で暮らしていました。しかし、兄が言葉を話し出すにつれ、次第に幸せであったはずの家庭に不穏な影が差してきました。
「お父さん、トマト食べられるようになったんだね」
 ある日、兄が言いました。何気ない会話でしたが、父は驚きました。父は昔、トマトが大の苦手で、よく恋人にからかわれていたそうです。恋人が死に、兄が生まれて少し経ってから食べられるようになったのですが、兄にそんな話をしたことはありませんでした。これだけなら単なる偶然と思えますが、しかしこうした発言は何度も続きました。
「この指の傷、もしかしてあの木登りをした時にできた傷?」
「あ! 川だ! 昔、一緒に水遊びをしたね!」
「昔、お父さん、夕日の絵を僕にくれたね。あの絵、どこにあるかな?」
 父と恋人でしか知り得ないことを兄はいくつも知っていました。こうしたことが重なれば、たとえ荒唐無稽な考えであっても確信に変わっていくものです。
 父は、兄を死んだ恋人の生まれ変わりだと思うようになりました。
 父が息子に抱く愛情としては異常な執着を強めていくにつれ、母は兄に対して複雑な感情を抱き始めました。可愛い我が子であるのに、兄が父との昔話を口にすればするほど、嫉妬心が膨れ上がっていったのです。母から聞いたわけではありませんでしたが、しかしその目を見れば幼い私でも分かりました。
 ある日、夕飯のスープを作る母の後ろから兄がのぞき込んできました。まだ、八歳の頃でした。
「もうお腹が空いた? ちょっと待ってね。もう少しででき……」
「お父さんは」
 母の言葉を遮って、兄が言いました。
「大きく切ったにんじんは苦手なんだよ。小さく切った方がよろこぶよ」
 兄の声や瞳に嫌みな色はありませんでした。純粋によかれと思って助言した、という感じでした。母に褒めてもらおうと期待する子供の純真な眼差しさえ湛えていました。
 しかし、母にとって、目の前にいるのは可愛い我が子ではありませんでした。未だ愛する夫の心を縛る元恋人でした。
 バチン、と頬を張る冷たい音が部屋に響きました。床に倒れた兄は、自分に何が起こったのか理解できていない顔で母を見上げていました。母は、兄を叩いた手を凝視していました。震える自分の手と、兄の赤くなった頬を交互に見て、ようやく自分がしたことを理解したのでしょう。母は弁解するように「ち、違う……、わ、私は……」と悲痛な声を漏らしながら後ずさりました。
「おかあ、さん……?」
 兄が母へ手を伸ばしました。その手の意図は分かりません。もしかすると、恐慌寸前の母を救おうとする子供の無意識からくる行動だったのかもしれません。
 しかし、その手は母を追いつめました。
「いやぁぁぁぁ!」
 母は高い悲鳴を上げてその手をはたき、そのまま逃げるように家を出ていきました。
 その後、母が帰ってくることはありませんでした。父は母を捜そうとはしませんでした。ことの経緯を私と兄から聞いても「そうか……」と呟いただけで、それ以上何も聞こうとしませんでした。それどころか、母の口から兄の存在が外部に漏れているのではと危惧し、また遠くへ引っ越したのです。しかし私は母が家を出る原因となった兄や母を家に連れ帰ろうとしなかった父を不思議と恨むことはありませんでした。むしろ、家の中から奇妙な三角関係がなくなったことに安堵すら覚えていました。
 
 私たちは、小さな村で領主に土地を借り、麦を作って細々と暮らしました。父と私は主に外で農作業を、兄は家の中で掃除や洗濯などの家事をしたり、収穫した農作物の選り分けをしたりしていました。
 幸い家が村の外れにあったこともあり、兄の存在が村人たちに気づかれることはありませんでした。私たち親子三人は慎ましく穏やかに暮らしていました。
しかし、ひと月に一度やってくるオメガ特有の発情期が来ると、仲睦まじい親子関係に不穏な影が差し込みます。
「今日から兄さんは井戸の中だ」
 毎月、兄が発情期に入ると、父はそう言って家の裏手にある井戸の中に連れて行きました。もちろん乱暴に押し込めるわけではありません。兄も同意の上です。こうでもしないと発情期のオメガが発する濃厚な甘い香りを村人に嗅ぎつけられる恐れがあったからです。
井戸は空井戸で、底には毛布を敷きランタンを置いていたので、井戸の底の寒々しさは緩和されていました。兄曰く、不便はないとのことでした。
発情期が治まるまでの間、井戸の上に蓋をして、父が食事と水分を一日に何度か運んでいました。私が運んでもよかったのですが、父はそれを頑なに禁じました。
私は発情期の兄を見たことがありませんでした。発情期になると、父が夜の間に兄を井戸に連れて行っていたからです。
朝起きて、兄のいない隣のベッドをぼんやりと見つめながら、ああ、発情期が始まったのだなと察します。
私はいつもまるで何かに引き寄せられるように、空になったベッドに潜り込みました。シーツには発情期の甘い、子供にはあまりに刺激的で魅惑的な香りがほのかに残っていました。胸が上下するほど激しく呼吸を繰り返し、香りをひとつ残らず体の中に取り込もうとしました。体の外と内から兄の香りに満たされ、気づけばいつもその多幸感に下半身が絶頂を迎えていました。
私の精液の臭いと兄の残り香がシーツの中で混ざり合うのを鼻の奥で感じながら、甘い溜め息を漏らしました。
兄の残り香が体の中に蓄積されていくほどに、発情期の兄に会いたいという気持ちが強まっていきました。
一度、こっそり井戸の中にいる兄に会いに行こうとしました。しかし、すぐに父に見つかってしまいました。父は温厚な人だったので、謝れば「仕方ないな」と笑って許してくれると思っていました。
 しかし、井戸に近づく私を目にした父の目は、普段の姿から想像も出来ないほど鋭く、苛烈な炎を宿していました。その目に気圧され謝罪も言い訳も言葉に出来ませんでした。
「……来いっ」
 煮えたぎる怒りが滲んだ低い声でそう言うと、父は私の腕を乱暴に掴んで家の中へ連れて帰りました。
そして家のドアを閉めると、その場に膝をつき私の目を覗き込みました。恐ろしい父の目に怯えて思わず逃げようとしましたが、両肩を強く掴まれ身じろぎすら叶いませんでした。
「……いいか。絶対に発情期の兄さんに会いに行ってはならない。絶対にだ」
 父は内の怒りを抑えるようにしてゆっくり私に言い聞かせました。それは警告でした。しかし子供の身を案じてあえて厳しく言う父親の優しさからくるものではありませんでした。父の目には、私は我が子として映っていませんでした。父が私に向ける視線は、自分の恋人に近づく不届き者に対する敵意に満ちていました。命の危機すら感じられるほどのその鋭い視線に、心臓がドクドクと強く胸を打ち付けました。
私は恐ろしくなって何度も頷きました。それを認めると、父は私の肩から手を離し、立ち上がりました。
「……今日は豆のスープにしようかな」
 剣呑な雰囲気を無理矢理散らすように、父が話題を変えて台所へ向かいました。父の中に残った僅かな理性が父であろうと取り繕ったのでしょう。しかし、この時から父は私の中で父ではなくなりました。
なぜなら、私は父を恐れると同時に、兄を独占する父に強い敵愾心を抱いてしまったからです。

 父は、その兄に対する執着心からは想像できないほど呆気なく流行病で亡くなりました。私が十六、兄が十八の頃でした。
死に際に、父は私だけを呼んで言いました。
「兄さんを、頼んだぞ……」
 既に体から魂が半分ほど出てしまっているようなか細い声でした。しかし恨めしそうに私を見る目から、その言葉が決して私を頼りにして言っているのではないことは明白でした。泣く泣くこの座を譲らなければならないといった未練をたっぷり含んだものでした。
私は父の手をぎゅっと両手で包み込みました。
「ええ、兄さんは私が必ず守り通します」
 その言葉を聞いて父は、安堵と嫉妬が入り交じった複雑な瞳で私を見つめ、次には永遠にその目を閉じました。

 父が亡くなってから私たちは二人暮らしとなりました。しかし、さほど大きな変化はありませんでした。
 朝起きて、一緒に食事をし、私は外へ農作業に出ます。兄はその間、家の中で洗濯をしたり、掃除をしたり、夜の食事を準備したりしていました。そして、私が帰ってきたら兄が準備してくれた食事を一緒にとり、今日互いにあったこと――例えば窓の外から見える木に変わった鳥が留まっていたことや畑の隅に可愛らしい花が咲いていたことなど、について話しました。
 毎日、同じ事の繰り返しでした。しかし退屈ではありませんでした。その穏やかな日常は幸せそのものでした。
 ただひとつ変わったことは、発情期の兄を井戸に連れて行く役目が私になったことでした。
 兄の発情期は必ず深夜、ベッドの中で始まりました。初めて発情期の兄を目にした時、私は思わずごくりと唾を飲み込みました。餌を前にして涎を垂れ流す犬と同じ類いの下品な唾です。
 兄は決して見目麗しい人間ではありませんでした。恐らくオメガということを除けば特徴のない平凡な人でした。しかし発情期に入った兄は、血の繋がりや穏やかな日常、常識、理性……それらを容易く吹き飛ばすほど毒々しいまでに甘い魅力を全身から発していました。
 顔や首元、袖や裾から伸びる四肢、それら外に出ないせいで真っ白な肌は、体の奥底から湧き上がる熱でじんわりと赤みを帯びており、呼吸はまるで情事の喘ぎを思わせる切なげで淫靡な響きを孕んでいました。
 兄の全てが扇情的でした。もし私が兄と何も関係のない通りすがりの人間であれば、その場で兄を犯していたでしょう。大袈裟な冗談ではありません。発情したオメガとはそういうものです。私が何とか性的な衝動を抑えることができたのは、微かに残った理性が、ここでもし兄を犯せば二度と兄と平穏な日常を送ることが出来ないと警告してくれたからです。
 私は兄を抱きかかえ、裏の井戸に連れて行きました。父がしてきたように、井戸の傍の太い木にロープをくくり、その端を自分の腰で縛ります。そして、兄を背中にくくりつけ、木と繋がったロープを伝いながらゆっくりと井戸の底に降りました。
 その間、発情期で火照った兄の体温が背中に滲み、微熱を帯びた吐息が耳元を薄らと濡らしました。それはもう生き地獄でした。何度理性の糸が切れそうになったか分かりません。
 井戸の底には毛布が敷かれていました。そこに兄を横たわらせます。井戸の壁に打たれた釘に、腰に携えていたランタンを掛ければそこはちょっとした小部屋となりました。あるいは、現実から切り離された世界の果て。
「……兄さん、大丈夫ですか?」
 私は井戸の底でいつも、兄の汗ばんだ額に張り付いた髪を整えながら訊きました。それは兄を気遣っての言葉ではありません。目の前にいる男が自分の兄であることを己に言い聞かせるためです。
「……ああ、大丈夫だ」
 兄は私の問い掛けに、いつも微笑みでもってそう答えてくれました。辛そうな喘ぎをぐっと堪えて作られたその笑みは、弟を安心させようとする健気さと優しさに満ちていました。そういった兄の穢れのなさを見せつけられるほどに、兄を犯したいという穢れた欲望が歪に膨れ上がりました。
「それではまたいつものように食事や水はロープでおろしますね。また様子を見に来ますので何かあれば遠慮なく言ってください」
 僅かに残っている理性を掻き集めて、努めて穏やかに冷静に言いました。
「ああ。ありがとう……」
 兄の微笑みを視界の端で確認してから、私はロープを伝って井戸の外へ出ました。外は夜の闇に包まれていましたが、井戸の底に淀む闇に比べれば明るいものでした。冷たい夜気を含んだ爽やかな風が、卑猥な汗が滲んだ私の背中や額を撫でました。兄の漏らす熱い吐息で湿った井戸の底とはまるで別世界です。井戸の底で見たものは夢だったのではと思わせるほどです。
 私は言いようのない不安に襲われ、井戸をのぞき込みました。耳を澄ませると、暗い闇の底から兄の上気した喘ぎが淡く立ちのぼってきて、微かに耳朶に触れました。私はほっとしました。
「……兄さん」
 そっと囁くように井戸の中に呼び掛けます。しかし、その声は兄の淫靡な吐息に掻き消されてしまいます。
「兄さん、兄さん、兄さん……――」
 井戸の底に届かない程度の声で兄を呼びながら、私は自分の下半身に触れました。井戸の底に響く甘く切なげな声と私の下半身に触れる手の動きが徐々に重なっていきます。
「兄さん兄さん兄さん兄さん……!」
 やがて、呪詛のように重く暗い声が兄の吐息と、まるで複雑な歯車がピタリと合わさるようにひとつになる瞬間が訪れます。その時、下半身の卑猥な熱が絶頂を迎えます。白濁の欲望が井戸の外側を汚しました。
 井戸にはきっと今でも私の精液と兄の喘ぎ声が染み込んでいるはずです。
 
 ****

 兄が二十歳になり、私は十八になりました。私たちが住んでいた村では、私くらいの年齢になるとほとんどの者が結婚しており、子がいる者も少なくありませんでした。
 傍から見れば、父を亡くし寂しく一人で暮らしているように見えたのでしょう。見かねて縁談を持ってくる親切な人もいました。中には自分から言い寄ってくる若い女性もいました。しかし、いずれの申し出も断りました。どんなに心が広く優しい女性でも、オメガの兄を隠し続けるこの生活を理解してくれるとは思えなかったからです。
 というのは建て前で、兄との二人きりのこの暮らしに邪魔者を入れたくなかったのです。
「お前は結婚しなくていいのか?」
 ある日、夜の食卓で兄が突然訊いてきました。
「急にどうしたんですか?」 
 なんの脈絡のない質問に私は戸惑いながら聞き返しました。
「いや、この間、村の人が縁談を持って来たから……」
 確かに数日前、懇意にしている村の老夫婦が縁談を持って来ました。その時、兄は隣の部屋にかくれていたのですが、どうやら聞こえていたようです。
 盗み聞きしたのが後ろめたいのでしょう、兄はボソボソと呟くようにして言いました。
「……断ってよかったのか?」
「もちろん」
 私は即答しました。しかし兄は釈然としない表情で口をもぞもぞと動かしました。
「……お前はきっと俺を気にして結婚しないんだろう? 俺のことは気にしなくていい。お前が心に決めた人が現れたらその時は、ちゃんとこの家を出て行くから」
 頼りない細い声でしたが、その目は本気でした。その言葉が兄の気遣いであることは十分承知していました。しかし、腹の底から湧き上がる怒りを抑えることができませんでした。
「……出て行く? ここを出てどこへ行こうと言うのですか?」
 思いも寄らず冷たい声が出ました。しかしその時の私に声を繕う余裕などありませんでした。
 兄の方からごくりと息を呑む怯えた気配がしましたが、気にせず続けました。
「兄さん、まさか貴方は自分がオメガだということを忘れているのですか? オメガの貴方が外に出ればすぐにオメガ狩りに捕まってしまいますよ。オメガ狩りの恐ろしさは父さんから何度も聞いてきたでしょう?」
 兄は下を向き黙り込みました。オメガ狩りの恐ろしさを承知しての言葉だったのでしょうが、こうしてあらためて言われるとやはり少し怖くなったのでしょう。
 私は手を伸ばし、テーブルの上で組んだ兄の手をそっと包み込みました。
「安心してください。私は死ぬ前に父に誓いました。兄さんを死ぬまで守り抜くと。私はそう誓った時に、普通の幸せなどとうに捨てました」
 嘘です。私は父に誓う前から普通の幸せを捨てるどころか、それを願う気持ちすら持っていませんでした。最初から私は兄と一生添い遂げることしか願っていませんでした。
 それでもあえて、私は普通の幸せを捨てるなどという恩着せがましい言葉を選びました。それはなぜか? 簡単なことです。兄の中にある負い目や罪悪感を、より強く深くするためです。いつかそれが私への暗い感謝と愛へ変わることを願いながら……。
「……だから兄さん、貴方が私を幸せにしてくださいね」
 私は兄の手を取り、その甲に軽くキスをしました。兄の濡れた瞳が私を見つめます。私への怯えと哀れみで震えるその視線を、私は微笑んで抱きとめました。

 私たちはそれからも二人で単調な、しかし穏やかな幸せに満ちた生活を重ねました。私は、このまま兄と一生過ごせるものだと信じて疑いませんでした。
 あの夜までは……。

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