もしもペリーじゃなかったら
1
『チッ』
…と耳元で聞こえた次の瞬間、ふわっと身体が浮いた。
『――わっ、えっ』
力に物言わすようには見えないその腕のどこにそんな力があるのか、高杉はあたしを片腕に抱えて地を蹴り跳び上がって、柵の向こうの木の枝に手を掛けた。
『ちょっ、――』
『口開けてっと舌噛むぜ』
頭のすぐ上から声が降ってきた次の時
『あがッ!』
高杉の両足が着地した。舌は無事だが奥歯がカチンと鳴った。
どんどん遠ざかってゆく背中の方で『クソっ!』とか『逃がすな!』と騒ぐのが聞こえる。
高杉は枝を使って身体を上手く振り子のようにして舞い降りた。そしてその勢いを緩めぬまま急坂を駆け下りていく。時々高杉やあたしの頭にぶつかる葉や草が短く激しく音を立てた。暗い森の中からやや明るく視野が開けた時、高杉はもう一度地面を蹴ってさっきと同じように枝をしならせて今度はやや上に舞い上がり、着流しを羽根のようになびかせて平面に着地した。
“舞う”がお似合いの所作だった。着地も実に静かだ。
そこまでのその滑るようになめらかな動きに、あたしの意識は見事に追い付いていない。ぐるぐると視界だけが回って、やっと足が地に着いて腕を解かれた時もなお立つ力なく膝を着いたぐらいだ。
『嗅ぎつけてやがったか』
と、頭上で高杉が喉を鳴らしている。相変わらずの余裕綽々ぶりだ。今しがた下ってきた丘の上を見上げる横顔はその身に危機が迫っているようには全く見えない。
『ごんこ(名)、来い』
再び手を引かれたが、あたしは頭がぼうっとしていて、いつしか高杉の単衣を握りしめていた手も足も身体からまるで切り離されたようだ。
『ごんこ(名)、』
『…』
もう一度高杉に呼ばれたところでやっと目の焦点が合った思いがした時、けれど『嫌だ』と叫んだ。「なぜだ」という顔をした彼にあたしは突き放すように、
『逃げてよ!』
と言った。
『お前も来いと言ってんだ』
『ほっといてよ!』
『何乱してんだ』
と言われたって、けれど口は止まらない。
『見たくないの、高杉の傷つく姿なんか、見たくない』
『フッ、俺が捕まるとでも?』
余裕な嘲笑。
――違う、それだけじゃない。
『高杉の刀が血で汚れるのも見たくないッ!』
――高杉を守らなきゃ。ここで真選組と戦わせちゃ駄目だ――
その思いだけがあたしの中で渦巻いていた。これから彼の身に起こらんとする最悪な事態への恐怖とそれを決して現実にはすまいという緊張で全身が震え上がりそうだった。
『捕まるぞお前』
当然高杉は理解できないという風な顔をする。
『あたしはいいよ』
『よかねーよ』
『いい!』
間髪入れず突っぱねた。高杉はイラつき始めたのか眉間を険しくした。こんなとこで高杉が捕まるくらいなら、あたしが捕まって高杉が逃れられるのならそれでいいと思った。
『ごんこ(名)』
だけど本当はその、よかねー、とあたしを見る右目が途方もなく嬉しかった。膨らむばかりの逆の想いを圧し殺そうと、唇の震えを懸命に耐えた。
『…あたしはこの世界の人じゃないからさ』
もはや思い付く理由は他に無い。
『んなこと言ってる暇じゃねぇだろ』
『暇じゃないなら――』
早く行ってよ!と強引に引き寄せてくる手を振り切り、『バカ!』とまで言った。言ってしまった。
『お前――』
その時高杉が空気の異変を感じた。『来る』と背後の茂みにやった右目を鋭くする。真選組は丘の麓にも詰めてきたらしい。離れた所で土方さんらしきが声を張り上げて指示をしてるのがあたしの耳にも聞こえてきた。
…潮時だ。気を張り息づかいを抑える彼の胸をそっと、でも力つよく押した。
『あんたが捕まったら…どうなるのよ』
鬼兵隊の部下だって銀魂の読者にしたって、高杉がいなきゃいられない人が、たくさんいる。
分厚い無表情で高杉はじっと一点を見つめてきた。合わさった瞳から、紙テープを抜き取られるような思いがした。あたしの心理が書いてある紙テープが、しゅるしゅると。
…あたしも、その隻眼に存在されないといられない1人にいつしかなってしまっていた。
『高杉にも、真選組にも、絶対にどちらにも協力しないよ。それがこの世界に置かれた自分の立場なんだ、きっと』
おもむろにもう一回、押した。
『可笑しいな。今お前が俺を逃がすってことは俺の肩を持つことに違いねーじゃねーか』
『…かもしれないけど』
『けど?』
『だけど高杉晋助がここであたしと一緒に捕まるのは不自然なんだもん』
『不自然?』
――そうだ、上手く言い現せないけど、異世界のあたしが絡んでんだもの、不自然だ。
目の前の志士に、分かってよ、と後はもう目で訴えるしかできなかった。無理矢理だと思うが、あたしの足りない頭じゃこれ以上上手く言えない。
『……』
ようやく高杉は音もなく背を向けた。
着流しを大きくなびかせて走り出す前に鋭い視線をあたしに向けながら。
顔の表情は微塵も動かさずだけど、月の光に煌めいたその瞳が『また来る』と言ってくれているように感じたのは、あたしの自意識過剰だろうか。
…背中が長屋の脇に消えた。
『――オイ!動くな』
『…』
『…お前は』
あたしは…
『土方さん。こいつが高杉に関わってやしたぜ』
『…高杉晋助はどこへ行った』
『…』
『オイ。言わねーと』
『別にいいわよ。あたしはこの世界の人間じゃないもの』
あたしは高杉のことが好きだ。
だけど現実、途方もなく遠い世界で違う道を見ている人だ。
『…屯所まで来い』
彼の遠ざかる背中を見るとそんな感じが強くする。
今までも彼が違う方向に目をやる時、ぽーん、て距離を感じていた。
「遠すぎる…よ」
「―― っ!」
脳の奥の方で神楽ちゃんの高い声がした。
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