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それは初夏の(奏々)完
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「どういうこと、って言われても」
 カマキリは素っ頓狂な声で言う。彼自身に非はないが、それでも全く悪びれない態度を取られると腹が立つ。
「よく覚えてない」
「覚えてないって、じゃあまずキミは人間なのか? 虫なのか?」
 僕が呆れて言う。カマキリに向かって喋る人間と言うと奇特だが、喋るカマキリの方がよっぽど奇特だから問題ない。
「覚えてない。だから恐らくはカマキリなんだろうな。人間だって、人として生まれた時の記憶なんてないだろう? 俺は気づいたらカマキリで、喋ることができた」
「それが分からないんだよ」
 何一つわからない。名前も(最初からないのかもしれない)、性別も(口調からして男だと思っている)、カマキリの身体でどうやって人間の発声をしているのかもとんと分からない。これじゃ世にも奇妙な物語じゃないか。せめて冒頭にタモリさんの語りくらいは入れてほしいものだ。
「ともかく、俺はカマキリだし、日本語を話せる。それしか分からないが、それが分かれば十分だ。だから、俺の代わりに獲物を取ってきてくれるんじゃなきゃ、さっさとこのビンから解放してほしいんだけどね」
 カマキリは右の鎌で、ビンの内側をひっかいた。道端に転がっていたジャムか何かのビンは決してきれいではない。
 僕はため息をつく。何と言うか、会話は成立していても思考は完全に野生のカマキリだ。これは本当にカマキリがたまたま喋っただけだと考えた方がいいんだろうか。
「ちなみに、カマキリとは会話できる?」
 単純な好奇心から尋ねた。別にできたからといって何があるわけではない。
「人間と同じようにはできないな。そもそもカマキリには言葉はないし」
「鳴き声で会話とかはしないのか?」
「しないことはないが、それはあくまで意志疎通だな。考えてることが大雑把に伝わるだけで、せいぜい数パターンしかない信号みたいなものだ」
 ふうん、と鼻を鳴らした。まあ、虫にそんな高等な脳味噌はないし、他のカマキリが人語を解しているとも思えない。目の前にいる例外のせいで一概には言えなくなってしまったが。
「ところで、君の持ってるそれは何だ? 卵鞘でも持ち歩いてるのか?」
 彼は僕の手に持ったアイスバーに着目した。卵鞘とはカマキリが卵を産みつける泡状のものだ。
「アイスっていうんだ。知らない?」
「アイス? ああ、小さな子供が嬉しそうに連呼していたのを聞いたことはあるな」
 カマキリとしての記憶しかない彼は、人間についての情報は道行く人々の会話から得るしかないのだろう。
「冷たい食べ物さ。夏は暑いだろう? だから冷たいものがおいしい」
 僕がそう言うと、カマキリは気を落としたように鎌を振った。やれやれ、という感じだ。
「カマキリは暑さ寒さなんて感じない。人が暑いとか寒いとかはよく聞くが、いまいちどういうものかわからないんだ」
「ふうん、そういうものか」
 僕はアイスを口に入れた。
「なあ、そろそろ流石に出してくれないか。道を渡してもらったことは感謝しているが、カマキリの狩りは決して精度が高くないんだ。このままじゃ飢え死にしちまう」
 僕はおもむろに、無造作にビンをひっくり返した。口からカマキリがずるりと這い出して、両の鎌を舐めた。
「ふむ、考えてみると、会話できたのは君が初めてかもしれない」
「そんなものかよ。キミは、歩いている僕に何の躊躇もなく話しかけてきたじゃないか」
「こんな爽やかな日だ。少しくらいの冒険だっていいものだろ?」
 カマキリは笑う。表情はないが、声も出ないが、恐らくは笑っていた。
 僕は食べきったアイスの棒を口にくわえて、ふっと笑みをこぼした。
「そうだね」
 じゃあ、と小さく言い残して、カマキリは草むらの中に飛んでいった。がさりと、微かな音が聞こえた。
 残された僕の傍らには、泥や汚れのついた空のガラスビンがひとつ転がっている。
僕がこれから、あのカマキリに会うことはもうないだろう。
 初夏の暑い日のこと。ふと時計を見ると、不思議なカマキリと話していたのは、ほんの二分間半のことだった。

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あきゅろす。
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