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紫花妖(霧晶)完

 その夜もまた、伊兵衛は歌を詠む声で目を覚ました。高く低く聞こえるそれは、細い声でありながら、耳にまとわりついて眠りを邪魔する。こころもち、昨日より声が大きくなっているようだ。
 その声のせいで眠れないが、しかし昨日のことを思いだすと見に行くこともできない。
 妖の類いを信じないと言った彼でも、やはり実際に見てしまえば恐ろしい。誰かを伴っていけばいいとも思ったが、相手は鬼である。大の男数人がかりでも太刀打ちできるだろうか。
(あけるまで待つしかないね。幸い今は水無月、夏至の頃だ。あと数刻もしないうちに日が昇るだろう)
 そう思い、再び目を閉じた伊兵衛の耳に、女の歌とは別の音が聞こえてきた。ぺたぺたと、板敷きの廊下を歩く音。
 鬼が家の中に入ってきたのか。
 伊兵衛は息をひそめた。
 変わらぬ調子の歌声が聞こえるなか、足音は徐々に大きくなり、伊兵衛の枕元にまで達したかと思うと、再び遠ざかっていった。
 そして、戸を開ける音。ざっという小さな音は、足音の主が庭に降りて立ったのだろう。
(助かった……)
 そう思えたのもつかの間、庭から白木をこすりあわせたような悲鳴が響いた。
(あれは……!)
 伊兵衛も知っている、下働きの娘の声である。さっき聞こえた足音は、店のうちから庭へ出る娘のものだったのか。
 悲鳴を聞きつけ、店はにわかに騒然となった。男たちがどんどんと廊下をならしながら庭に走り、女たちは脅えた声でなにかをささやきあっている。
 伊兵衛も、遅れながらも庭に出た。今宵は空に雲はなく、月の光が庭を白くてらし、影絵のような景色のなかに草葉の色ばかりがあざやかである。
 娘は店の女たちに囲まれ、縁側に寝かせられていた。着物の右側が土埃でうっすらと汚れている。その目はしきりにまばたきして焦点は定まらず、口元は開いたままである。伊兵衛が近よると、娘の瞳がその姿をとらえた。
「旦那さま」
 あの鬼にも似た掠れた声で、娘が伊兵衛を呼ぶ。
「どうした」
「鬼が」
 死人のような白い顔で娘が指さしたのは、紫陽花の花の植わっている一角だった。

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