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紫花妖(霧晶)完

 その日は煙るような雨だった。ちょうど梅雨入りの始まった日のことだ。
 雨が降っているとはいえ、江戸の街は活気に溢れていた。その日暮らしの行商人が傘も差さずに行き交いし、土がむき出しになった道の上では子供らが水たまりをはね散らかして遊んでいる。道に並ぶ店の中からは、客たちの話し声が聞こえてくる。
 江戸は堀留町にある俵屋でも同じことだった。客の入りこそ他の店に比べて少ないものの、店のなかでは職人たちが忙しく布団を縫っている。俵屋は、その名にこそ俵という文字が入っているが、寝具を商う店である。長屋暮らしの持つようなせんべい布団ではない、高価な布団を商売にしているため、注文の数が少なくても店をまわすことが出来るのだ。
 店のさらに奥、狭い庭に面した縁側では、俵屋伊兵衛が庭に植わっている花々を横目で眺めながら、茶を飲んでいた。青みがかった紫陽花がほそく落ちる雨に打たれ、霞んでいる。
 茶を飲み干し、店の人間を呼ぼうとした伊兵衛に、声をかけたものがある。
「おや、旦那。店に顔を出さなくていいのかい?」
 いつからそこにいたのか。夏物の、うすい麻の着物をはおった、背の高い女が唐傘を差して庭の隅に立っていた。唇に薄く紅をのせた整った顔だちは、四十女のようにも、生娘のようにも見える。
「またあんたか」
 いかにもいやなものを見た、という顔で伊兵衛が答えると、なにが可笑しいのか女は微笑んだ。
 彼女の名は紫雲(しうん)という。もちろん店の者ではない。伊兵衛の祖父の代から俵屋に出入りしているというまじない師である。
「いやいや、最近この店からお呼びがかからないからねぇ。忘れられているんじゃないかと心配になってさ」
「忘れていたわけじゃないけどねえ。とりあえず今日は用がないから、帰っておくれ」
「それは悲しい。あんたのお祖父さんなんかは、ことあるごとに仕事を頼んでくれたもんだけどねぇ」
 紫雲がわざとらしくしなを作ると、伊兵衛の眉間のしわはいっそう深くなった。
「あたしは祖父さんとは違うよ。まじないだのなんだの、馬鹿馬鹿しい。それよりも勝手に入ってこないでおくれ。最近店に入ってきた若いやつらは、あんたのことを知らないんだからさ」
「この町に住んでて怪異のたぐいを信じないなんて、あんたも変わってるねえ。石頭にもほどがあるよ。もっともそんなことを言ったって、商売繁盛の御札は毎年取り替えているんだろうけどねぇ?」
 笑いまじりの紫雲の言葉が図星だったのか、伊兵衛が小さく舌打ちをしたそのとき、店の表から伊兵衛を呼ぶ声がした。得意の客が来たらしい。
「おや、あんたも忙しいみたいだね。あたしはここで退散しようか」
「ああ、そうしておくれ」
 店のうちに入りながら彼が追い払うように手を振ったとき、紫雲の姿はもうなかった。


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