[携帯モード] [URL送信]

本(二司まぐろ)
5の巻
彼女の部屋の中はとても奇妙だった。
玄関からすぐの一部屋に一人用の机、一人用のクッション、小さめの箪笥や一式の布団など、一瞬最低限のものだけに見える。しかしそれらを囲う威圧感に気づけば異様な空間へと変貌した。桐でできた本棚が四方にそびえ、窓の位置さえつかめない。本棚の上の段ボール箱が天井までの壁の存在を一切消していた。
埃っぽい臭いと彼女の香水の香りが混じり、部屋に漂っている。
低い位置にある橙色の電球が丸く部屋を照らしていた。
私と彼女は一人用の机を挟んで座っている。彼女はパーカーを脱ぎ、オレンジのタンクトップ姿。私は彼女から黒無地のTシャツと七分のジーパンを借り、大きめながらも着ていた。机には彼女が出してくれたホットミルクが短い湯気をたてていた。
「それで、あなたはなんで私に声をかけたの?」
部屋に入って最初の一言。手のひらでゆっくりと湯気を扇ぎながら、彼女は言った。
「それより、私が先に質問してもいい?」
初対面の相手に失礼な態度だと分かっている。しかも一番初めに声をかけたのは私だ。しかし事の整理をすればするほど、私の頭は疑問ばかりになり、他のことが考えられなくなっていた。私はそれらを整理する糸口が欲しかった。
 それと奥に潜む恐怖から、少しでも逃げていたかった。
「いいよ」
その砕けた口調は彼女にとても似合っていた。
「なぜ、私をここに連れてきたの? 私が声をかけた時、あなたはとても私を怪しんでいた。それはそう。いきなり声をかけて黙ってしまう人なんて、私だって変だと思う。……それなのにあなたは私を家に連れてきた。素性も分からない怪しい人物を、自分の家にあがらせた」
私はホットミルクの湯気を見つめながら話した。私の声に揺らされ、湯気は形をかえる。けれど所詮、湯気だ。息継ぎの合間には形をとりもどしている。湯気を追って顔をあげると、橙の光を宿した彼女の瞳が私を見ていた。
「それはなぜ?」
彼女の真っ直ぐな瞳に怖くなり耐えきれなくて、最後の言葉は左側の闇へ向かった。
湯気を扇ぐ手がとまる。マニキュアをしていない健康なピンク色の爪。その一つが彼女の口の中へ入っていった。
癖なのか彼女は人差し指を噛みつづける。そしてついに彼女の口から声が漏れるようにでた。
「……なんでだろうね」
二人だけの静かな部屋。涙が、ホットミルクに落ちる音がした。それを合図として世界の音が聞こえ始める。今の涙の音が外でいくつも鳴っていた。雨がここにもやってきていた。
「  」
私はまた、言いたくても何も言えなかった。けれど空白の時間は降りだした雨音と私の嗚咽が埋めた。私は生まれて初めて、嬉しさを自分で理解して泣いた。その言葉が、彼女の口から、今の表情で紡ぎだされたことに、私は心からの喜びを感じた。
「ありがとう」
泣き止まない私を子供のようにあやしながら、彼女は小さく頷いた。
そのとき腕に巻きついていた毒蛇がぽろりととれた。あの恐怖は、私の中からついに消えた。
その日から私に変化が起きはじめた。新たに嫌いなものができることはなく、私の体に浮かんでいた嫌の文字が、水を含んだ絵の具のように薄れていった。
元々の嫌いは克服できていない。しかし今ならば甘んじて受け入れてきた天気も、嫌い認定も、彼女に会うため、この変化のためと思うことができる。主観的な理由がまたつらつらと頭に流れ始めるが、最後には彼女の「なんでだろうね」と言う場面が映しだされ、私はすべてを嬉しさのままに納得することができた。

本の世界のようなこの部屋には、朝も夜もない。いつだって暗闇に小さな太陽が灯っている。
その小さな太陽が照らされる世界に、生命は私たちだけだった。今は机に向かいあい本を読んでいる。ふと顔を上げると、切れ長の猫のような目がきょろきょろと動いて文字を追っている。中の黒い瞳には橙の光が灯っていた。私は車の中で見た夕方のコントラストを思い出して綺麗と呟いたが、彼女には聞こえなかったよう。まるで飢えた者の久々の食事のように貪るように彼女は本を読んでいた。
先ほど私たちは近くの書店へ向かい、五月の新刊を全て買ってきた。二冊を交換して読みあい、読んだ後は批評をする。相手の辛口さに苦笑したり、感動を分かちあって泣き叫んだり。私達は学生のようにはしゃいでいた。すべて済んでしまうと、彼女の本棚を片端から読みあさった。
そのあいまにホットミルクを作り直した。私の提案でチョコを入れたり桃の果汁を入れたり、色々な味を楽しんだ。彼女は飲み始め、やはり湯気を手で仰いでいた。訊くと猫舌なので冷ましているらしい。
猫背、猫舌、猫目。
ふと「猫って言われない?」と呟くと、読書中だったが「うん」とかえってきた。

[*前へ][次へ#]

あきゅろす。
無料HPエムペ!