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本(二司まぐろ)
4の巻
本屋の裏、人通りの少ない小路に私は立っている。肌寒い風が小路を吹きぬけた。
「寒い」
気温はだいぶ下がっていた。西の空は橙に染まっている。灰色と橙色のコントラストは毒蛇の模様のようだった。
これからくる夜を誰よりも早く迎えようと、私は夕陽に背を向けて歩きだす。
数分歩いた頃、頬に雨があたった。とうとう降り出したかと思ったが雨は生暖かい。この気温では冷たい雨になると思っていたが。
すぐに理由は分かった。私は泣いていた。久々の涙で物珍しく、私は手にとった涙を観察した。小説みたいに光らない、舌でなめるとだいぶしょっぱい涙だった。
周りに人はいないが恥ずかしくなって、私は袖で目をこする。
風は彼女と会った時よりさらに強くなっていた。強風は私にぶつかるように吹き、私は思わずたたらを踏む。電柱に手をついて風が止むのを待ったが、風の終わりに無意識に口が開いた。
「どうすればいいの」
子供みたいに泣きじゃくりたいのに恥ずかしさがそれを止める。彼女に会いたいのに嫌いな自分ができなかった。泣く原因の気持ちを嫌いたいのにその嫌いな自分に突っ返される。
強風が吹く、前兆の音。
足に力が入らなくなってきた私は、次の風に倒れるかもしれないと空を仰いで想った。
風が、吹く。
種は違えど、それを掻き消すほどのクラクションが鳴らされた。
振りかえると赤色の禿げたコンパクトカーが細い道を占領している。こんなところを通るからだと思いながら、私は電柱の陰に隠れて道を譲った。
しかし禿げた赤色の車は道を進もうとしなかった。代わってエンジンが止まり、ドアが開く。
出てきたのは。
「……ありがと」
私は電柱に縋った。そうしないと立っていられなかった。無理やり止めた涙は勢いを増し、大雨のように頬を流れ落ちていく。
驚きと嬉しさでぐちゃぐちゃになった顔を私は見られたくなかった。私は持っていた鞄を顔の前にあげて隠すが、目の前に立った彼女は鞄を持つ私の手を無理矢理に降ろす。そして降ろした私の手を掴んで駆け出した。
車に乗る寸前、頬に冷たい雨があたった。

彼女の赤色禿げ車の助手席に乗り、私は外を見ている。
左方へと流れていく景色は橙と黒のコントラストになっていた。光と闇になる二色は反しているようで似ている。そんなことを今は穏やかな気持ちの上に思う。
県をまたがったあたりで空は晴れはじめた。今は夕陽が綺麗に見え、ビルの彼方におちようとしている。
私を車に連れこんだ後、彼女は一言も喋らなかった。車は静かに発進したあと、大通りを軽やかに走り滑るように止まる。それを機械のように正確に繰り返している。
東京をぬけ、神奈川へ。
一度だけ、私が赤レンガと呟くと、彼女は吹き出した。
ラベンダーの芳香剤の中に彼女の香水の香りが微かにした。石鹸のように甘く、蜜柑のように爽やかだった。

すっかり陽の暮れた頃、車は大通りの果てに行き着き、小さな路地をいくつか曲がって止まった。
降りてと言われ、私は車から出る。長い時間包まれていた香りが夜の冷たい風に流れていく。代わりに寒さと寂しさが私を包んだ。それは呼吸とともに内部へと入り、眠っていた私の恐怖を覚ます。毒蛇はまだ腕にいる。体が震えはじめ、歯がなった。それから逃れるように私は赤いテールランプを目で追った。
赤禿げ車は共用の駐車場へと入って行った。スムーズな前向き駐車。数秒後、テールランプはぱったりと消えた。暗い裏通り。たった一本の街灯は明滅をくりかえしていた。
世界にとりのこされた子供のように、私は空を見上げた。
東京からずいぶん離れたからだろうか、いつもより多く星が見える。オリオン座しか分からない私はてきとうに星をつなげて星座をつくっては、恐怖から気を逸らしていた。
「お待たせ」
肩を叩かれ、歩くようにと背中をおされる。彼女の手は思ったより大きかった。ぺたぺたと頼りなく不整な私の靴音。泣きじゃくる子供の嗚咽のようにリズムが定まっていない。私は彼女のよく響く靴音が羨ましかった。
禿げ車をとめた駐車場の向かい、その数件隣のアパートへと入っていく。二階へ上がり一番奥の扉の前に立った。
彼女が鍵を探している間、私は動物園にでも来たようにきょろきょろと見渡す。
無機質な白い蛍光灯に蛾が二匹舞っている。アパートの壁面はクリーム色のタイルが剥がれ落ち、黒い何かが顔を出している。一見ぼろぼろのアパートだったが、ドアだけは最近塗り替えたばかりなのだろう、綺麗な群青色だった。真ん中の新聞入れは口を閉ざしている。その上の表札には簡素な板が打ちつけられ、板には『仙谷』とあった。
不意に首を撫でられる。いや細いもので引っ掻かれたというほうが正しい。反射的に振り返ると、おいでおいでを繰り返す葉っぱがあった。木の枝は欄干の内側に大きく入り込んでいる。
私は感触の残る首をおさえ、恐怖に零れてしまった涙をふみつけた。
ここにナメクジはでるのだろうか。私は朝の出来事が遠い昔のことのように思えた。

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