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本(二司まぐろ)
3の巻
「待ってください」
本屋のドアを出て右へ数メートルのところに彼女はいた。彼女の歩く速度は思ったより速かった。
アスファルトを叩く音が止む。彼女はゆっくりと振りかえった。
恐怖と不安の混じった瞳が私の目を見る。私の顔に貼りついていた笑みがぽろりと落ちた。
「……私ですか?」
本屋にいた時間はそれほど長くないと思ったが、風はだいぶ強くなっていた。青々と茂った木々を盛大に揺らし、葉擦れの音が大きい。彼女の声はそれらに消されそうな小ささだった。
「はい」
私は強く大きく頷く。自分の行為は正当だと言うかのように。それと彼女を呼び止めた理由を考えるために。
しかし実のところ、私は何を言えばいいのかさっぱりだった。断片的な想いと言葉が埃のようにあちこちにころがるばかりだった。掴もうとすると逃げ、掴めてもロクなものではなかった。
――あなたが嫌いじゃなかったから、とでも言えばいいのか。それではただの傲慢な女だ。あなたに何か光るものを感じた。スカウトか。私のものになってください。……。そもそも女同士だし。しかも課長が言いそうな言葉だ。ずっと見ていました。これはストーカー。ジメジメした奴は避けられる。革靴の音に惚れました。あながち間違ってはいないが。
言葉にするには至らない思考が、ぐるぐるとまわった。
嘘は言いたくない。
けれど本音が分からない。
思いつく言葉はすべて嘘っぱちに聞こえた。嫌い認定の理由のような、子供が泣く理由のような言葉では、彼女は去ってしまう。しかしぬるま湯のそれに浸かっていた感覚は、柄の短いお玉のように本音の上底しか掬いだせない。
これでもない。あれでもない。
何を言えばいいのだろう。
そもそもなんで私は呼び止めたのだろう。
なんで彼女が気になるのだろう。
荒い呼吸ごとに商店街のミックスジュース臭が私の脳内に流れこんだ。それが触媒となり、思考は混ざって粉々になって、ついになにも掴めなくなる。
ここで私は気づく。
何も言えない理由を私はただ主観的に並べたてただけだった。
つまり言い訳を。
「  」
結局、一つも言葉は出なかった。私は酸素の足りない金魚のように口を開け閉めするだけだった。
空白の時間。
そこに彼女の疑心と私の焦りが雪崩れこんでいった。重い雪のような彼女の疑心は私の心を徐々に押し潰していく。痛みはなかったが、とても怖かった。
本当になぜ私は彼女を呼び止めたのだろう。自分が怖い。
彼女が私を怪しんでいる。彼女の心が怖い。
私は怖さの理由が分からなかったから、対処法も分からなかった。シャツに皺がつくことなど考えつかないまま、私は胸元をぎゅっと握っていた。迷子の子供が泣きだすのを必死にこらえるように。
「あ」
意図して出してみた声は、そよぐ風に虚しく消える。そんな自分の声の響きに嫌気がした。そもそも彼女に対して何も言えない自分に、嫌という文字が徐々に浮かび上がってくる。
――自分が嫌い。
ああ、とうとうここまできてしまった。
恐怖が占める感情の隙間に、絶望が起き上がる。
それを祝福するかのように、一際大きい風が吹いた。木々たちはより一層高い声でざわめきあい、彼女の髪を舞いあがらせる。黒髪の一本一本が綺麗に灰空に上がった。
空白の時間を埋めるほどの、強く大きい風だった。
この風が終わったら、言おう。
何を?
「なにか」
風に消える声で、私は呟く。
なにか言わなければ彼女は行ってしまう。
二度と会えなくなってしまう。
それは彼女が私を怪しむことよりも、恐ろしい。
風は永い眠りに入るように、安らかに止んだ。
彼女は未だ私を見ていた。思えば始めから今まで、彼女の瞳は私から動かなかった。そのことに私は追い立てられた子供のような恐怖を感じた。
なにか、なにか言わなきゃ。
「あの」
「もういいです」
私と彼女の声は重なった。
言葉の形がない私の声は、彼女の声に負けた。
「もういいから」
彼女は眉間に皺を寄せて、最後の言葉を放った。
そのまま彼女は去った。パーカーのフードを被り、背を猫のように丸めて、歩調は軽やかに速く。アスファルトを叩く革靴の快音が、遠のいていく。
彼女は風に乗るように歩く。
私と彼女の距離はあっというまに広がっていった。

「これでいい」
今のは子供な私の些細な興味なのだ。自分が持っていないものを羨んで、欲しいと声をかけたのだ。手に入れてしまえばすぐに飽きてしまう。投げ捨ててすぐに忘れてしまう。
でもなぜなのか、とても怖かった。先ほどの恐怖とは質と量がまるで違う。彼女は去ってしまったのに、いや去ってしまったことに対して、予知していた以上の恐怖を感じていた。
シャツから手を離し、皺を伸ばす。何に頼っても埋まることがないと分かっているその恐怖は、しかし甘んじて受け入れられるものではなかった。ならばと嫌い認定へ提出するが、すぐに突っ返されてしまった。酒で忘れられるものでもないだろうそれは、子供が高望みしてもらった毒蛇。手を振りまくっても腕に巻きついてとれない。
続く恐怖。
「どうすればいいの」
投げやりな言葉は向かい風にのって帰ってきた。

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