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本(二司まぐろ)
2の巻
「なんか、いやだ」
電車内、私は流れていく景色に何番目かの『嫌い』認定印を押した。備考欄にジコチュウ文をならべ、登録は完了する。儀式の最後、熱のないため息を私は無意識についた。
嫌うことは、私の護身術だった。
私は子供だった。相手からの憎悪を、そして自分が傷つくことをだれよりも恐れていた。他人の冷たい瞳を想うだけで私は呼吸がうまくできなくなる。それはまるで肺が生きることを拒むように。
それらを防ぎこの身を護るために、私は嫌った。嫌えばこちらから相手を捨てることができる。捨てればもう怖くない。いらないものだからと目をつぶることができる。
最寄駅に着く。まばらな人がホームへと降りる。混雑を嫌う私は一番最後に下車した。

嫌いが詰まった駅の外。
携帯ショップの並んだ駅前。威勢のいい八百屋。鱗のきらめく魚屋。歪で少し甘い臭いのパチンコ屋。適当にぶち込んで混ぜたミックスジュースのように、好奇心と不安感をかきたてる異臭がする地元の商店街。
何にも目を止めず、ぼんやり明るい曇り空と電線のあいだに、私は視点を泳がせる。祭で袋に入れられた金魚のように、狭いなかを行ったり来たり。出られないことを知っているのに、私の視点はなぜかいつももがいた。
ついに疲れると、私は一度つよく目をつむった。耳にはすでにイヤホンをさし、メタルロックがうなっている。五月蠅いが嫌いではない。
「甘んじて受け入れられるから」
呟いた瞬間、唐突にメタルロックが止んだ。その余韻が消えるとともに、私の全身から血の気がひく。八百屋の声やパチンコ屋の派手で安っぽい音や主婦たちの高笑いや学生たちの癖のある伸び声が、私の耳に届いた。私は脂汗を浮かべながら音楽プレイヤーの再生ボタンを押す。しかし再びメタルロックが鳴ることはなかった。
「故障? ちょっとなんで、なんで今なの?」
 耳に入る音の全ては、まるで刃を生やしたように、私の耳の奥をひっかく。傷がつく。痛い。呼吸が乱れてきた。嫌っても目を閉じても耳を塞いでも、声は私のどこかから入りこんだ。
嫌い。嫌い。
聞きたくない。
嫌だ!
ピーマン、ニンジン、ナスを口元に押し付けられた子供は、泣きだして逃げる。自分のお気に入りの場所。逃げるための場所。唯一の居場所へ。
私は商店街の端にある小さな本屋へと駆けた。絶えることのないざわめきも、ここまで来ると隣人の大声ぐらいに緩和される。白地に本の赤文字看板が、まるで帰宅時の家の灯りのように私を迎えた。看板に抱きつきたくなる衝動をおさえて、私はガラス張りの自動ドアをくぐった。

思えば久しぶりの本屋だった。理由はなかったが一か月ほどぶりだった。
だいぶ過ぎてしまったが、五月の新刊をチェックしようと私は文庫本のコーナーへ向かう。本屋の中は細いつくりで、ドアに一番近い場所にレジと本屋大賞のスペース、順に雑誌、新書、学習本、細い通路は右へ曲がり、奥に文庫本のコーナーがある。
誰もいない通路を私は黙って進む。古いスニーカーのぺったりとした音が店内に響いた。一瞬それが子供の嗚咽に聞こえ、私は小さく舌をうつ。
学習本のスペースをぬけ、右へ曲がる。文庫本コーナーの一番手前、文庫の新刊コーナーの棚の前に一人の女がいた。彼女は細身のジーンズに緑のパーカー、外見年齢は二十歳後半ほどだ。パーカーのポケットに両手をつっこみ書店員の感想カードをじっと読んでいる。その顔は口のぽっかりとあいたマヌケ面。茶っけじみた黒髪はボーイッシュに整えられ、覗く耳には何もついていなかった。
マヌケ面のまま、彼女は棚から平積みへと視点を移動させる。一つ一つ確認するように縦に一列見ては、カニ歩きで一歩移動し、また次の一列を見る。
彼女は一見してどこにでもいそうな人間だったが、女という部類としてはどこか世間から外れていた。主婦でもキャリアウーマンでも女学生でもニートでもない。まるで何者でもないよう。それゆえか私の嫌いに当てはまる要素がない。私は彼女を好奇心からか睨むように見つめていた。私自身がそれに気づき、慌てて目を逸らすが、意識は彼女に向けられはなすことができない。それは嫌いの増殖を止められない感情と似ていたが、嫌ではなかった。
彼女はふいに後ろを向く。私は意識して別方向を見た。二人がやっとすれ違える通路の幅を彼女はぶつかることなく、また止まることなく私の後ろを過ぎ、去っていった。私は彼女に引っ張られるようにドアの方向へと首を向ける。しかしすでに彼女は左へと曲がってしまっていた。ただカッカッという快音が本屋に響いていた。
ラフな格好に似あわない靴音だった。スニーカーではなく、革靴だ。
その音が遠退き、ドアが開くかすかな音が聞こえる。快音が雑踏に掻き消される直前、私は棚を離れた。その時はただ革靴の音をもう一度聞きたいからだと、自分に言い聞かせて。
新刊は一つも頭に入ってない、また本屋に来なければとぼんやり思った。彼女のマヌケ面を思い出すと、失礼だが笑いがこみあげてくる。なぜだか不思議と楽しくなった。
嫌いの詰まった外へ、私は駆けた。


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あきゅろす。
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