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本(二司まぐろ)
1の巻
私が彼女と出会ったのは、商店街の本屋だった。
その日は朝から小雨が降っていた。アパートの階段にはナメクジが十匹、つがいのように並びあいじっとりと濡れた顔をあげていた。私は嫌だ嫌だと呟きながら、階段を小走りで降りる。ビニール傘を開くと快音がしたが、さした傘の向こうは昨日の青い皐月空を雲が隠していた。
空を睨んでいたら水たまりに足をつっこみ、濡れたズボンの先を絞ると、その感触に先ほどのナメクジを思い出す。ぞっとして手をはらうと、目の前になぜかナメクジ本人が現れ、私は小さな悲鳴をあげて逃げた。
朝からまったくついてない日だった。
会社に着く頃になると雨はあがったが、空は未だ薄灰色のまま。光が雲の中を迷ったようにちらほらと白い明るみがあった。
「晴れろ」
と念じても何も変わらない。雨女でも晴れ女でもないただの女は、甘んじて今日の天気を受け入れる。
会社に着きビニール傘を閉じると、そこからポロリといった感じになにか落ちた。
すぐにアパートのナメクジが脳裏をよぎる。私は小さく息をのんだ。
「おはよう」
「あ」
それを覗こうとした瞬間、濡れて光る革靴にそれは踏みつぶされた。
ぶちっと嫌な音がした。
「どうした?」
「あ、いえ。おはようございます」
革靴の上にはでっぷりとした大きな腹の課長がいた。黒い質の良い傘を閉じ、私にかからないように滴を振る。雨か汗かに濡れた額を、紫の品の悪いタオルで一生懸命吹いていた。
「嫌な雨だね。これから散々降るだろうから、しばらく晴れていればいいのに」
私は彼に同感だったが、雨に湿って重たい空気が喉を塞いだので何も言えなかった。
「じゃ、お先に」
「はい」
課長が水滴のついたガラス張りの自動ドアに消えた後、私は課長がいた場所に向かって傘をまわし、雨粒を落とした。先ほどのは嘘だ。彼と同じ気持ちをもったことに私は吐き気を感じるほど嫌だった。だから何も言わなかった。
私は彼が嫌いだった。クラスに一人はいる、リーダー気質だが周りを考慮しない人。メーターを無視して独りで走り、けれど道を外れる直前にブレーキを踏んでなんとか落ち着いてしまう人。
「……なんだ」
滴と彼の足跡の中にあったのは潰れたナメクジではなく、チョコの包装紙だった。赤い紙からは中のチョコが潰されはみ出ている。私はそれをグレーのスニーカーでさらに潰した。
「嫌い」
それは一番簡単な目のつむり方。
「このメーカーのチョコはもう絶対に食べない」
スニーカーの下で、チョコの中のナッツが潰れた。

会社を出た頃、空は未だ曇りだった。
自動ドアの前には朝と変わらないまま潰れたチョコがあり、私はさらに踏んで外へと出た。
時刻は午後三時過ぎ。
量に波のあるこの業種は冬がピークだ。一泊などざらにある分、それ以外はほとんど事務であり、それが終われば暇に等しかった。会社から離れると、私はきっちりと着ていたスーツをすこし緩めた。道端で立ち止まり、屈んでスニーカーの紐を締める。革靴を心のなかで罵倒しながら静かにアスファルトを蹴った。
朝よりも風が出てきたなと思いながら、私は駅へと向かう。
商店街に入ると少し着飾った主婦があちこちにいた。夕飯の材料を買ったり、カフェに入ったり、ダンス教室と書かれた怪しげな二階へと行ったりとその行為は様々だ。
一見してバラバラな彼女達の共通点は、私が入ったことのない店に我が物顔でずんずんと入ってしまうことだった。
「ズルい」
心のなかで、嫌いが頭をもたげる。菌に近いそいつは数を増殖していき、私の感情をすべて埋めつくした。
私は安堵のため息をついた。
私は彼女たちが嫌いだった。

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あきゅろす。
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