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黄昏色の夢を見る(くれとー)完
一 心に触れる歌
 我らは夢に見ん 失われし楽園を
 嬰児として生を受ける前より知っていた その都
 手を伸ばしても届かず 現と夢の狭間に在らん
 黄金の光の中に沈みて 永久に在りき
 いつか還らん 懐かしの我が故郷よ
 いつか還らん 【永遠の黄昏】よ!

 この歌を初めて聴いた時の私の気持ちをどう表現したらよいだろう。私の貧弱な語彙ではもちろん、もし私が世界中で使われている言葉を全て手足のように使えるのだとしても、この世を統べている全能の神でさえ、私がそれを聴いた瞬間にこの胸の中を占めた思いを適切に表す言葉を持たないに違いない。感情は生き物だ。その時々で移ろい、次の瞬間にはまた微妙に色合いを変え、二度と同じ色彩になるということはあり得ない。感情を言葉にして表すという行為は、染め物の色を色見本と付き合わせ、一番近い色に分類するのに似ている。近似のパターンに当てはめ、一般化するだけのことだ。名を付けたとしても私の心を正確無比表すのになど程遠いため、私は感情に名をつけるのを好まない。
 だが、あえて私のこの気持ちを言葉で表そうとすれば、それは衝撃となるだろうか。まるでその場で雷にうたれたかのように私の足は地面に縫い付けられ、その歌が流れてくる方向を探し私の目は虚空を彷徨った。
 群を抜いて巧い、誰もが振り向かれずにいられないような歌声ではない。だが、素朴な竪琴の音と笙のように細く高い不思議な歌声の織りなす甘やかな旋律は即座に私の心を搦め取り、釘付けにした。
 その旋律が胸に心地いいとは、たとえ熟れたリンゴが枝から地面に落ちるかわりに空へ空へと浮かび上がる日が来たとしても言えない。私は自分自身に大しては嘘をつかないように努めている。だから正直に言うが、その旋律は穏やかだった私の心をざわざわとかき乱し、どうしようもなく私の心を不穏にしたのだ。まるで演奏によって生み出される音一つ一つが心の上を跳ね、引っ掻き、縄のように繋がって私を締め付けるようだった。何故だかわからないが、体の奥底からこみ上げてくるものがある。呼吸の仕方を忘れてしまったように息苦しくなり、助けを求めるように喘ぐとその弾みに歌い手の姿がチラリと目に入った。
 その人物は街の中央に位置する噴水広場の、石造りの噴水に腰掛けていた。その身を包んでいるマントは擦り切れ土埃にさらされて、元が何色だったか判別できなくなっている。全体的に薄汚れた風貌で、唯一真新しくピカピカと光っている鼈甲のような竪琴が不釣り合いに見えた。
 放浪の吟遊詩人だろうか。見かけない顔だった。しかし、昔からそこに座っていたのではないかと錯覚しそうなほどに、暮れなずむ街に埋没し、その空気に溶け込んでいる。長く旅を続ける旅人とは得てしてそういうものだ。どこの空気にも馴染める者か、どこに行ったとしても余所者の者か。ほとんどがその二種類に大別される。
 私の心をこんなにもかき乱したこの歌は何なのか。唐突に私はその詩人に問いただしたくなった。だが、私の体は夕暮れ時の喧噪に流され、詩人に近づけないまま通りへと押していかれた。この街の大きな通りは全て放射状に展開しており、その中心に吟遊詩人のいる噴水広場があるため稼ぎ頭が家へ帰る夕暮れになると毎日広場は人でごった返すのである。もう一度戻ろうとしても、私が押し出された小路への人の流れが壁になって私と広場を隔てていた。無理をして掻き分けていっても、立ち止まっていては通行人の邪魔になるため吟遊詩人と話を交わせるかどうかは怪しい。さらにそれ以前の問題として、私は人の流れを逆行するような気概も、苦労をしてまで歌の正体を訊きにいくという好奇心も持ち合わせていなかった。
 だからその時の私は、その歌について知ることを早々に諦めて、どこかに靴の中に小石を入れたまま歩くような気がかりを歌に残しながらも広場を後にしたのである。


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