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樹海(紺碧の空)完
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 樹海                    紺碧の空

 別に、逃げ出すつもりではなかった。ただやるせない気分になり、逃げ出すように家を出た。家族は何も知らず、今頃俺が会社にいると思い込んでいるのだろう。何も考えずに、車を走らせた。普段は気にも留めていなかっただだっ広いホームセンターに入り、ロープを買った。ロープだけでは怪しまれるので、金槌やらドライバーやらも購入し、仕事用の鞄に突っ込んだ。考えてみれば、スーツ姿という時点で、既にどうにもならかったのかも知れない。賢明な諸君はほとんどお分かりだと思うが、今俺は富士の樹海にいる。

 何故ここが自殺の名所なのか、今まで考えてもみなかった。だが、そこには確かにその空気があった。何となく陰湿で、しかし自然の荘厳さがある。鬱蒼と茂る木々の間から洩れる光が、ところどころに残された愚かな人間の遺物を照らし出していた。木の根に躓きそうになりながらも、俺は歩き続けた。劣化して破けたオレンジ色のリュック。何者かに漁られた後の財布と散乱したレシート。これは森に対する冒涜だろうか? いや、人はここで、森に還るのだ。吊られたまま全く揺れないロープが、その墓標であった。

 それは、あまりに唐突だった。それまで陰鬱だった世界に、突然光が差し込んだようだった。そこには天使がいた。いや、そう見えたのである。純白の衣服を纏った少女が台の上に立ち、吊るした輪を両手に掴んでいた。茂みをかき分けた先に、その光景が広がっていたのである。
「……」
彼女はこちらに気付いたようだった。一瞬の視線の応酬が終わると、決然とした顔で首に縄をかける。
「……ま、待て!」
彼女は手を止めた。不思議そうな顔で、こちらを見つめる。
つい声を上げてしまった手前、何か言わなければならない。
「き、君……死ぬつもりか?」
「あら、それは聞く必要があるかしら? でもどうしても聞きたいというのなら、そうよ」
少女は驚くほど冷静な口調で答えた。時間の無駄だと言わんばかりに、プラスチックの台に足踏みをする。
「もういい? 出来れば、あっち向いてて欲しいんだけど」
「いやその、待て。君はまだ若い、そう、若いんだ。だから、簡単に死んでは駄目だ」
「へぇ、簡単に死ぬんだと、思う?」
彼女は真剣だった。俺は彼女の事情を全く知らない。だが、止めさせなければならないという断固たる意志があった。何故か? 彼女が若いから、というだけでは無いようだ。可愛らしいから? 清純そうだから? 違う。彼女は俺の娘に似ているのだ。俺が、俺の無能故に、苦しめてしまった娘に……。
「何であれ、死んでは駄目だ。君にはまだ未来がある。それを、一時の気持ちで不意にしてはいけないんだ。そう、俺とは違う……」
「貴方はここに、何しに来たの?」
「それは……」
無意識に持っていた鞄を後ろに隠す。自分でも滑稽な姿だと思ったが、彼女は深く追求してこなかった。
「その、なんだ、観光だ、観光」
「へぇ。仕事中じゃないの? そんな服装で」
「ああー、そうだ。俺はツアーコンダクターなんだ。分かるか? いわゆるガイドだ。今度のツアーの下見に来たんだよ」
俺が愛想笑いを浮かべると彼女も笑ったが、苦笑だった。
「こんな所でツアー、ね。随分と趣味の悪い旅行会社だこと」
「ははは……と、ちょっと待て!」
気付けば彼女が首に縄をかけていたので、かなり焦り気味の声が出た。このままここを離れては、確実に彼女は自殺するだろう。全てを諦観したかのような口調がそれを痛いほど物語っていた。
「一体何があったんだ。君みたいな人が死のうだなんて」
「あとでガイドをする時の説明に必要?」
「そう言う訳じゃないんだが……教えてくれないか」
「いいけど。聞いても後悔するだけだと思うよ」
そう言って、彼女は話しだした。


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