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秒針の嘲笑(消火器)完
U-4
陶器の花瓶は、見かけより重かった。割合しっかりとした造りのようである。中を漱いで軽く水気を切った。
再度蛇口を捻り、勢い良く水を注ぎ込む。水音で、ピアノの音と歌声が途切れた。
思い起こしてみれば、彼女はこんなによく喋る人間ではなかった気がする。私の記憶の中の彼女は、ただ黙々とひたすらピアノを弾いているという印象しかなかった。
彼女は、喉を治してから随分と明るくなったのではないだろうか。人は長年の望みが叶えられた時ほど、明るくなれるものらしい。
そして今日は、いつにも増して機嫌がいいように思われた。
女は、だが私が気持ちの底でこっそりと期待したほど、花に関心を持たなかったと感じる。きっと、今日の日を覚えているのは私くらいなものなのだろう。
花も多い上、花瓶自体が大きいので、暫く待って適当なところで水を止めた。また、旋律が耳に届く。
花の生け方など、私は全く知らない。彼女が言った通りに、茎の下の方に付いている葉を幾らか取っただけで、纏めて花瓶に花を挿した。
昔、彼女の家をよく訪れた頃は、家のあちこちに大小様々な花瓶があり、素人目にも判るほどに美しく花々が生けてあったものだった。
今でこそ彼女はあまり花を飾ることはしなくなったが、それでも時折、部屋の隅や窓辺など、さり気無く、それでいて奇麗に生けられた花に息を飲むことがままある。
そういう仕事をしていたのか、或いはすればいいのに、と、言った覚えがあるが、彼女は黙って首を振っただけだった。
花瓶の大きさから言って、此れは棚の上に無造作に置いておけるものではないだろう。かと言って、床に置くほど巨大な壷という訳でもない。私は電話の横にそれをそっと置いて、夕食の前に、久し振りにした力仕事で少し怠くなった腰をぐっと伸ばした。
ふと、いつの間にか変わっていた曲に気付いた。私のよく知っているメロディーだった。
何処か遠い国の民謡のような、物哀しい旋律である。
昔聴いた時と寸分違わず、音が流れていく。しかし、唯一異なるのが、メロディーに女の歌う歌が乗っていることだった。
私の知らない言語のようだった。彼女と暮らすようになってから、何度も此の曲を聴いたが、歌の付いたものを聴くのは初めてである。
発音の度に僅かに動く喉の細い骨が、鍵盤の上を踊る蝶の如き指が、彼女が何一つ昔と変わらないことを物語る。まるで、此の花々とピアノと共に、あの穏やかな時間を切り取った中に閉じ込められでもしたかのようである。
なんとなく、曲が終わるまでその場で待ち、それから背を向けた。だがドアの取っ手に手を掛けたか掛けないかのうちに、響きの失せた背後から呼び止める声があった。
「ねえ、」
普段あまり人と目を合わせるのを好まない彼女が、視線をまっすぐこちらに向けていた。
「覚えていてくれたんでしょう」
「何を」
「今日のこと。だからでしょう、花を買ってくるなんて」
どうやら、私は思い違いをしていたらしかった。本人は、忘れていなかった。
「…お前こそ忘れてると思ってたよ」
言うと、女は声を上げて笑った。
鈴を振るような、なんて温い比喩は到底敵わないだろうその笑い声は、程良く音の反響する室内に明るく響いた。
「忘れるわけないじゃないの、何を言ってるのよ」
そう言ってピアノの蓋を静かに下ろし、彼女は立ち上がった。
「夕食、実は私もまだなのよ」
彼女は目で二階を示し、楽譜をきちんと重ねて棚に仕舞う。その棚は、よく見れば彼女の昔の家にあったものである。
本当に、何も変わっていないのだと思った。
肩胛骨の下の辺りまである黒髪は、ずっとあの長さだ。
物静かな印象を与える、しかし時に活き活きとした光を宿す瞳の周囲には、皺一つ見えないのである。
細い手はいつまで経っても少女のようだし、姿勢、歩き方、ピアノと弾くときの手付き、私はその全てを容易に想像することが出来た。
「おい、未由紀」
敬称を付けなくなったのは、いつの頃からだったか。しかし、一つ言えることは、彼女は年齢不詳な外見だが、私の齢は彼女のそれを明らかに超えているということだろう。
私の一方的な推察では、高校生だった私が初めて彼女に会ってから十年ほど後、すなわち丁度十八年前に、私は彼女の年齢を超えた。
「何?」
肩へ掛かっていた髪が、振り向きざまに背へと落ちる様子は、何度目にしただろうか。
「…先に、上、行ってるからな。」
「あ、ごめんなさい、待たせて。二階は暖房点いてるから」
「分かった」
「ああ、それから」
歳を重ねることのない彼女には、昔と変わらず、白い長いワンピースがよく似合っている。
「まだ何かあるのか」
「いいえ、言い忘れてただけ」
半開きにしたままのドアの向こうに、ツンと冷たい冬の匂いを感じた。
「花、ありがとう。」
冬はすぐそこだ。しかし、黒いピアノの横には、枯れない白い花が咲いている。
少なくとも、私の目にはくっきりと鮮明に映る、一輪限りの花である。

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あきゅろす。
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