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秒針の嘲笑(消火器)完
U-3
自宅に着いたが、鞄と花で両手が塞がった此の状態では、鍵を取り出せなかった。
私は仕方無く、花束を郵便受けの上に置いた。
大量の白い花はすっかり暗くなった中、近くの門灯に明々と照らし出された。その光景は、妙に幻想的で、言いようのない色香さえ感じさせるほどだった。
鞄を持ったほうの手で重いドアをなんとか引き、肩をストッパー代わりにやっと玄関に入る。
すると、ピアノの音が聞こえてきた。奥の部屋にももう一台アップライトピアノがあるが、この年季の入った柔らかい音は居間の古いピアノだろう。そんな違いも判るまでに聴き尽くしている自分に苦笑を漏らす。
「あら、いたの」
聞き慣れた言葉は、さして興味も無さそうな響きを含んでいる。ピアノを前にした彼女なら、いつものことだ。
低い連続した和音が途切れ、奏者は顔を上げた。
「珍しいじゃない、花なんて。どうしたのよ」
「…奇麗だったから、通りすがりの店で」
私は、何故か言うことが出来なかった。
いや、こういう場合、どんな顔をしていいのだろうか。彼女はまず絶対に、私が工面した金でその歌声を取り戻した日のことなど、覚えていないに決まっている。
「そろそろ早い初雪でも降るのかしら」
女は楽譜を捲りながら、独りで愉しそうにしている。
何千、何万回と耳にした音が流れ出すと、もう諦める他に術は無かった。私は花束を持ったまま、その場の空気から取り残された形になった。
しばし逡巡したが、結局二階で夕食を摂ることに決めた。そして、一瞬花束を持ち上げ、近くの棚の上を示して言った。
「おい、此処に置いておくぞ」
するとピアノの音が止んだ。
「やだ、そんな所に置いていくの?やめてよ、すぐに生けないと、花が悪くなるわよ」
「そうか。…なら、何処に生けておけばいいんだ」
聞くと、ピアノがまた緩く響き始め、少しして歌うような小さな声が聞こえた。
「そこに大きな花瓶があるでしょう?茶色のじゃなくて、」
「こいつか?」
白い指は白い鍵盤を探りながら、女は横目でこちらを見た。
「いいえ、そっちじゃない、…そう、それよ。その白地に薄い青の模様があるのよ、それに生けておいて」
言い終えた時には既に、彼女の関心は曲に移っていた。
「俺は、別に上手く生けたり出来ないぞ」
「いいのよ。紙を取って、水を入れた花瓶に挿しておけば。後でちゃんと生け直しておくから」
「ああ」
「あ、花瓶は最初に一度中を軽く水洗いしてよ?それ、似合う花が無くて暫く使ってなかったから。」
「注文が多いな」
「仕方無いでしょう?でも、その花瓶、また使えて嬉しいわ。花も素敵だし」
一呼吸の後、彼女はピアノに合わせて歌い始めた。ゆったりとした旋律に乗せて、小さいがよく澄んだ歌声が聞こえてきた。

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あきゅろす。
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