サーモグラフィ 今日一日のメニューをすべて終えると空はとっぷりと暗さを増していた。今日は朝から雲一つない晴天だったので夜だというのに空がいつもより明るく見えたような気がする。 「腹へったー!まじおにぎり2コじゃ足んねェよ」 田島が自分の自転車に鍵を差し込みながら、「なぁ」と隣にいた花井に相槌を求めた。 「セーブかかってるくらいが丁度いんだよ。お前なんてほっといたら動けねぇぐらい食べんだろーが」 その光景を想像したのか花井はウンザリしたような顔で自転車のカゴに重いバッグを突っ込んだ。思ったほか勢いがよかったために自転車の前輪がグルンと半円を描くと、そのまた隣にいた阿部の自転車に音を立ててぶつかりにいってしまう。 「っぶね!」 「ぅお、悪ィ!」 間一髪のところで阿部はハンドルを握っていた手を瞬時に引いたので接触は免れた。が、危うく捕手の大事な右手に怪我を負わせてしまいそうになったことに、花井は一拍置いてから染み出した掌の汗によって自覚させられることとなり、顔から血の気がひいた。 「こ、こわかった…」 「まて、そらオレの台詞だろが。つぅかコレなんとかしてくれよ」 特に気にもしていない様子で、阿部はそれよりもうまい具合にはまってしまった二つのハンドルにため息をついた。軽く揺すったぐらいではビクともしない。 「ねー、なにしてんのー?」 「あとつっかえてるよー」 二人がなかなか自転車を出さないせいで足止めされていた水谷と栄口が痺れを切らし寄ってきた。みごとにはまってしまっているハンドルを見て、…どしたの?、と一応聞いてみる。 事情を聞いた二人が手伝い、結局は四人がかりで戻すことができたが、花井は二重にかけてまった迷惑のせいでしばらく自己嫌悪に深いため息を漏らしていた。 全員がやっとのことで自転車を出し終え集まると、三橋だけはもといた場所から動くことなく、皆が戻ってくるのを待っていたようで。それに気付いた田島は三橋に寄っていく。 「あれ?三橋、もしかしてチャリねェの?」 「う うん。朝見たら パンクしてて」 今朝はお母さんに車を出してもらい、校舎とグラウンド間は学校のを貸してもらっていた、と話す三橋に、田島は迷うことなく「送ってってやるよ」と言おうとした。 「送ってやっからうしろ乗ンな」 しかしその田島よりも先に言ったのは阿部で、田島の開きっぱなしの口が阿部に先を越されたということを誰が見ても物語っていた。 阿部と三橋の家はこの仲間内の中では一番近いからそう言うのも納得できる。しかし田島は家まで一分の距離をわざわざ遠回りしていつも三橋と帰っているのでさほど変わりはない。むしろ適任人物なのだが。 「……へ?」 三橋はすぐに阿部の言葉の意味が理解できずに間の抜けた声を出した。阿部はそんなことは構わずに三橋の横へ自転車ごと移動する。 「送るっつってんの。おら、それ貸せ。リュックはのんねェからしょっちゃいな」 「う、うん」 地面から三橋のビニルバッグを持ち上げる阿部を見て、三橋は手に持っていたリュックをバッと背負った。教科書はほとんどと言っていいほど入っていない薄いリュックに比べ、ユニフォームやらグラブやらが詰め込まれているビニルバッグの方が遥かに重く、阿部のと両方のせられた自転車のカゴが悲鳴を上げているように三橋には見えた。 「ちょ、みは―ッ…!」 そんなバッテリーの姿に呆気にとられていた田島が我に返り、オレの立場は!?、と言わんばかりに前に出てきたのですかさず花井がその口を手で塞ぎ遮った。 「……っ っは!!」 唐突すぎる花井からの仕打ちに息を吹き返した田島は、どーゆーこと!?と花井に食ってかかる。 「今日は諦めてくれ!」 「は!?なにが!?」 花井の両手が田島の肩にどっしりと置かれ、なにやら神妙な面持ちでお願いをされた。あきらめる?なにを?三橋?もしかして一緒に帰んのをか?、田島は思い付くことを脳内に浮かべる。 「あいつらが二人で帰るなんてもうこの先ないかもしんねェ。いい機会だからバッテリーの仲を深め、…いや、まずは会話ができるぐらいになってもらわねぇとこっちが困る…!」 とにかくそういうわけだから協力しろ、そう花井に言われては田島も引き下がるしかない。理由がわかり、もうとっくに切り替えていたのだが、少し申し訳なさそうな花井の態度に便乗してやろうかという気になった。 「今日さぁ、三橋とパピコ半分こしようと思ってたんだよね」 両手を頭の後ろで組み、わざとらしく顔だけで花井を振り返る田島の顔は、悪戯を思い付いた子供のようにギラギラしていた。 「へ?なに、パピコ?」 「そー。食いたいけど寒ィから2本もいらねーからさぁ」 「あ、そう…」 そこまで相槌をうった花井はフっと、次に田島がなにを言いたくて花井になにをさせたいのかが手に取るようにわかってしまった。はめられた!、と後悔するも聞かされてしまったのだからもう遅く、半ばヤケクソに顔を上げると田島に食ってかかる。 「わーったよ!食うよ!食えばいいんだろ!?その代わりお前のおごりだかんな!!」 「ひひ、いいぜ?」 そーこなくっちゃぁ!と親指を立て、バチっとウィンクをする田島に花井は不覚にもど真ん中に入れられてしまった。 「あ 阿部君っ」 「あ?」 「みんなと コンビニ行かなくて、よかったの?」 阿部の自転車の後ろで揺られながら三橋が遠慮がちに聞いた。あの後校門前で皆と別れ、一足早く帰路へと自転車を漕ぎ出した阿部に三橋なりの申し訳なさからだったのだろう。 「お前こそよかったのかよ」 「オ オレはいいんだ。阿部君、帰るのが遅くなっちゃうから」 三橋の家よりも阿部の方が遠い。三橋の家に寄るとなれば来た道を戻らなければならないのでそれを踏まえた上で早く出てきた。 「あそ。それよかちゃんと掴まってろよ、オレの服でもいいから」 落ちたらシャレんなんねェかんな、とぶっきらぼうな言葉の中に不器用なやさしさが垣間見える。いつしかそれがわかるようになってからは三橋は阿部の話す言葉にビクつくことも少なくなり、三橋から話しかけることも増えたような気がしていた。 三橋が怪我をすることをなによりも心配している阿部の気持ちを汲み、腰に手を回すなんて大それたことはできないけれど、遠慮がちに阿部のシャツの両脇をきゅっと握らせてもらった。 「阿部君の背中 が、でっかく見えるよ!」 距離にして10センチ。こんなに間近で阿部の背中を見る機会などないに等しいので三橋は意味もなく感嘆の声をあげた。 「…そらよかった」 背中越しに「ウヒ」だの「すごい」だの言っている三橋に、阿部は不覚にも自分の顔が熱くなるのを感じてしまう。 角を曲がるたびに握られた三橋の手が布越しに阿部の肌に触れた。 一見わからないけれど、投手をしているだけあって三橋の手はタコや擦り傷、おまけに骨張っているためにゴツゴツしている。初めて握ったときにふんわりした外見と手とのギャップに驚いたのを阿部は思い出した。 いつだって冷たい三橋の手、阿部といるときにはいつも緊張している素振りを見せる。口下手な三橋の気持ちを知るために常日頃、手の温度で確かめる癖が阿部にはできていた。リラックスしていれば温かい、緊張していれば冷たい。 今こいつの手って冷てーのかな。手袋もしてないんだから冷てんだろうな、でも。 「確かめたい」そう思ったらいてもたってもいられなくなり折角スピードがノッていたタイヤにブレーキをかけた。 「うお、……阿部君?」 「わり、おりて」 「……へ?」 急に降りろと言われ、三橋の思考回路は急速に激しく回り始めた。それはもうグルグルと。 オレ、なんだか嬉しくて調子のった…。だ、だから阿部君は怒っ て…? 「ちげーから」 「!」 頭の中を見透かされたようなタイミングで言われたので三橋はビクーッと背筋が張った。しかし声に怒気がなかったので胸を撫で下ろし、とりあえず言われたとおりにキャリアからおりてみせた。 するとすぐに阿部はスタンドを立て自転車を自立させると三橋に向き合い、左手にしていた手袋だけを外しいつもの調子で肩の位置まで上げた掌を三橋に近づけた。 「手ェ、かせ」 「う、うん。…?」 言われるがままに重ねられた三橋の右手は、阿部の予想どおりすっかり冷え切っていて冷たかった。自分で運転していないとはいえ、この寒さの中手袋なしではそうなってしまうのも仕方がない。これでは緊張しているのか確かめる以前の問題だと阿部は思う。 「こんな冷たくて、感覚あんのか?」 「え、あ、すこしなら…」 少しかよ…。赤く変色した三橋の手を見ながら阿部はしかめっ面をした。 もういいかな…、と恐る恐る手を離そうとする三橋だったが阿部はそれを許さず、一瞬離れた三橋の手を掴むと強引に自分の学ランのポケットに突っ込んだ。三橋の手を握ったままの自分の手ごと。 「あ、あぁ あ…アベく…」 あまりにも突然の出来事に三橋の体はゼンマイの切れた玩具のようにギッと停止し、今にも喉から心臓が飛び出してしまうのではないかというぐらい目が回っていた。 「家着くまでに感覚もどせ。投手があんま手ェ冷やしてんじゃねーよ」 足でスタンドを上げたと思ったら右手だけで自転車をバランスよく押し、左手はポケットの中で三橋の手を握ったまま、行くぞ、と先を促しているようだった。 今にも縺れそうな足で阿部に引かれるがまま黙って歩く。ぽーっと回らない頭で三橋はいつになく繋がれた右手から阿部の存在を強く感じていた。 三橋の家まであと5分もかからない。 このままだと無言のまま着いてしまいそうだったが不思議と気まずさはなかった。繋がれた手が、三橋の温かくなった手が、二人に安心を与えてくれていたから。 「風呂入ってメシ食ったら早く寝ろよ」 「うん」 三橋の家の前で阿部は三橋に念を押す。同時にポケットから出された三橋の手は血色がよくなりすっかり温まっていた。 「感覚は?」 「もどった よ」 互いがそれを相手に見せないよう名残惜しそうに手を離し、三橋はグ、パ、と阿部に手を動かせてみせた。阿部はそれに頷くと、じゃぁな、と自転車の前輪を来た道に戻しペダルに足をかけた、そのとき。 「あ 阿部君…!」 「ん?」 三橋が阿部を呼び止めた。阿部は顔だけ振り向き三橋のその先の言葉を待つが、「あ、」とか「う」など単語がぶつ切りになってなかなか言葉にならなかった。 「阿部君のチャリがパンク……したら、オ オレが 阿部君を送るから。……そいで 今日はあ、ありがとう…!」 最初から最後まで一気に言い切ったために顔が真っ赤になった三橋に、阿部はうっかりペダルから足を踏み外しそうになってしまった。 自分でもわかるぐらいに頬がカッと熱を持つ。 「〜〜〜っ、任せたかンな!」 「!…うんっ!」 照れ隠しから、早く入れ、と玄関に向けて指を刺すことで三橋に伝えると、阿部はペダルを漕ぎ出しすぐに角を曲がった。けれど三橋は自転車の走る音が聞こえなくなるとようやく、ただいまー、と家に入るのだった。 阿部がしばらく来た道を走っているとズボンのポケットが震えだし、携帯が鳴っていることを知らせた。普段なら面倒くさがって運転中は無視を決め込んでいる阿部だったが、今は鼻歌混じりに返事をしながら携帯を引き抜いた。 「ういよー。…は?あー…ならもうちょいで着くから待ってろよ」 電話は弟のシュンから。どうやら今やっているゲームが詰まったらしくすでにクリアしている兄に助けを求めてきたようだ。 え!教えてくれる気なんて今日はやさしいんじゃん? 「はァ?ばっか、オレぁいつもやさしいだろが」 シュンの驚いたような言い回しに釈然としない様子で答える。するとシュンは「えー?なんかあったんじゃないの?」と聞いてきた。 「ん?んー…。まぁ、良いことはあった、かもな」 そう答えてまだ微かに温かく残る三橋の手の感触に左手をグッと握った。 阿部の意味深な発言にシュンはすかさず、なになに!教えてよ!、とせがみ始める。しまった、と阿部は我に返ると兄の権限により強引に話をすりかえるのだった。 「ンなことより!今日の試合、勝ったンだろーな!?」 他愛もない兄弟の会話は阿部が自宅の玄関を開けるまで続きそうなほど盛り上がり、阿部の上機嫌な声は近所迷惑なほど静まり返った住宅街に響いていた。 (08/03.02) 相互お礼ユキ様へ 「群青スタディーズ」ユキさんに捧げます。 相互のお礼として 手を繋ぎたい阿部(付き合い前) とのリクエストをいただいたのですが、なにこの文…どうかと思いますよ。阿部が手を繋ぎたそうにしてるとかめっさわかりづら!! まあまあ、両想いなのに付き合ってない時期の甘酸っぱさが出ていればそれでいいかと思いますw 散々待たせた挙句がこんなでごめんね…!ユキさんに献上いたしますのでご自由に処分して下さいませ! 有難うございました。 |