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そこにいてくれるだけで

 数学は不得意とする教科の中でも一、二を争うほど苦手で、思えば小学校高学年ぐらいから躓いていたのではないかと思う。公式を覚えてしまえば出来る、と得意な人は言うけれどそんなに簡単なものではない。毎回基礎は解ける、けれど応用になると頭に詰め込んだ公式が上手く当てはまらなくなり、更には問われている内容さえも理解できなくなって。結局そこでペンを置き、教室の窓に視線を外す。早く、早く野球がしたい、憎らしいぐらいに晴れ渡った青空を見ながらそう思わずにはいられなかった。

 うーん、と頭から漫画みたいな煙が出そうなくらい脳ミソを余すところなくフル活動させる。今までこんなにも一つの問題に集中したことがあっただろうか、いやない。そうまでさせているのは明日の試験科目に今取り組んでいる数学が入っているのと、教えてくれているのが阿部だから。
「うん、そいで……そう」
「……あ。で、でき た?」
「…うん。出来た」
 自分のノートに書かれている答えと今三橋が解いた回答とを見比べ、阿部は赤ペンでシュっと三橋の何度も書き直して汚くなった文字を丸く囲んだ。貰った丸はこれで八つ、試験範囲も終わり改めて解いた問題を上からざっと見返すと以前に比べ正解率が格段に上がっていた。これなら赤点を取る心配はないだろう、それどころか過去最高点を取れそうな気もしないでもない。思わず笑みが零れる。
「すげェじゃん、まさかここまでいくとは思わなかった」
「が、頑張ったよ」
「なに、数学好きンなった?」
「ううん、ちがく て」
「? イイ点取ったらなんかあンの?」
 まさか、ないよ!、と何故か気恥ずかしくなり慌てて突き出した両手を左右に振った。本当は阿部が自分の勉強時間を削ってまでこうして教えてくれるから、それに答えようとした結果がコレなのだけれど。
「ふーん?ま、いいや。三橋、目つぶって」
「へ? な、なんで?」
 先生に頼んで放課後使われない空き教室を貸してもらった。阿部が三橋の勉強をみるという理由を聞いたら喜んで鍵を貸してくれたのだ。その様子から阿部が思っていた以上に三橋の成績は底を突いているのかと本気で心配になり、実際出来る範囲を調べてみたら頭痛がした。それがよくもまあここまで。
「オレは目開けたままでもいいけど」
「え、わ…、」
 優しく、それでも力強く掴まれた腕から頭の先まで電気が走ったような感覚、その痺れから間近に迫る阿部の顔が霞んで見えた。堪らずに目をぎゅうと閉じるとすぐに生温かい息がかかり、阿部の匂いがまるで麻酔のように全身の力を奪い取っていく。
「…んっ、ぅん…」
 ドキドキして今にも心臓が破裂しそうなのに心の底から安心している。それは不思議と瞑想を思い出させた。朝の澄み切った空気、微かに聞こえる息遣い、繋いだ手から伝わる熱、阿部の手が心地良くてドキドキしながらも安心することのできる五分間。今と、きっと同じ。
「…っは、 あ、べくん」
「んー?」
 肩に顔を埋められたまま喋られるとくすぐったい。少しだけ肩を浮かせてみたけれど艶やかな黒髪は動こうとはしてくれなかった。
 目の前には阿部の肩があり、顔が見えないので何となくそこに向かって話し掛ける。
「オレ、阿部君をスキになって よかった。阿部君でよかったって ホントに思うんだ。だ からオレ、今 すごく幸せだよ」
 川のせせらぎに浮かんだ葉はゆらゆらと、時に速度を変えつつ流れに身を任せる。今、体の中に流れる穏やかな気持ちは阿部が与えてくれたもの、この気持ちを言葉で伝えるにはやはり 幸せ が一番似合うのだろう。
「あーもー…、なんでお前はそーゆうこと平気で言えんの?」
 信じらんねェ、と阿部はガシガシと乱暴に髪を乱し、三橋の肩から顔を上げた。
「ぅお、オカシイ かな、オレ…」
 急に不安になり首筋を擦る三橋の頭をわしわしと撫でる阿部は少し大人びた表情で笑っていた。
「いいよ、オレの前ではオカシクなっても」
「う、うん…?」
 阿部の言葉の意味が分からずに頭からはてなマークが飛び出したけれど、そのまま流されてしまったので同じように笑っておくことにした。
 阿部が椅子から立ち上がり、一番近くの窓を大きく開け放つとカーテンがヒラヒラと舞い上がった。その隙間から雲一つない晴れ渡った空を見て思わずため息が漏れる。
「三橋」
 試験終了まであと三日。つい最近までは寝て起きたら試験が終わっていて、ついでに勉強なんてなくなってしまえばいいと思っていた。
「早く野球してェな」
 けれど大嫌いな数学も試験も、阿部と過ごす時間の中の一部になっていれば全然苦にはならなくて。
「…! うん!!」
 それどころかこんなにも幸せな気持ちになるのならもう少し続いてもいいかな、と思ってしまった。




(08/05.03)
幸せな日常

ずいぶん前に書いてあったものを引っ張り出して一部使いつつ書きました。
大好きな人と共有できる時間ってすごく幸せで流れが穏やかだと思うんですよ。嫌いなものでも緩和してくれる不思議な空間だったり。
三橋は阿部といれば嫌いな数学も他の勉強もいいものだと思ってしまう。そう思わせるだけ阿部が好きなんですよね。



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