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 みたい夢の本を枕元に置けばその夢が見られる。そう佐伯は子どもの頃に聞いた。半信半疑で佐伯は幼少期、好きな絵本や図鑑を枕の下に敷いた。効果は結局夢の中に記憶と置いてきてしまっていた。
 商店街の外れにある寂れた、そろそろ潰れそうな花屋に入る。この辺りに住み始めて間もない頃に散歩の途中で見かけた花屋。店頭に鉢植えなどは置いてあるが建物自体が古く活気がない。陰気さすら纏っている。来店を雰囲気が拒んでいる。
 いらっしゃい。店番をしている老人が険しい顔を若干緩めて掠れた声で言った。
「白のカーネーション、ありますか?」
 ショーケースや花束を見物しながら老人に訊ねる。返事もせず老人は佐伯が見ていたショーケースとは逆の壁にあるケースへと入っていく。赤、白、黄、人工的に着色された数色のカーネーションが並んでいる。見慣れない花も。店員が数を訊ねて、迷った挙句に2本。フィルムに包まれ渡される。支払いを済ませ、佐伯は帰路に着こうとした。雨が止んでいる。そのまま帰ってしまえばよかったのだが、ふと目に入った白いトップスと白いボトムスの小柄な人影が行き交う人々の中に見えた気がした。髪も、金に近い濁った薄いブラウンだった。帰る方とは反対方向へ足が向く。ヒールのサンダルを履くのは好きだが疲れるのに。都心からわずかばかり離れたこの地区は人通りは多いが大通りが少ない。商店街を囲む住宅街は閑散としている。地域猫が徘徊し、飼い犬が人間同然の身だしなみと気品をたずさえ生活している。人はすぐ近くにどこでもいるため1人になることは難しいが安易に独りになってしまう。大きな駅近くまで出れば人の多さは一層増す。近くに役所や大学、会館があることもあり、さらには佐伯の住むアパートの近くの商店街より栄えたアーケード商店街がある。高いヒールにより脹脛が悲鳴を上げはじめるが佐伯は構わず歩き続ける。喫茶店が入ったオフィスビルやレストランやファストフードばかり入ったビル。逆の方角はカラオケやボーリング、ホビーショップに富んでいる。歩く度に白のカーネーションも揺れ、人目を引いた。大きな駅、佐伯の住む区域の最寄駅のひとつ隣の大きな駅は地下を通らず地上に橋を築き、大通りを横切っている。電車のアナウンスがまるでトンネルのような高架下まで聞こえるが轟音で掻き消される。白い男を見失わないように追っていく。踵と脹脛の拒否を拒絶して進んでいく。繁華街をあっという間に抜けそこからまた住宅街に入っていく。看板が同じ区の別の町に入ったことを知らせる。地区の末端にある大きく開けてた公園の近くにまた寂れている小規模な公園がある。佐伯の脚がそこで休めと訴えている。ヒールの高いサンダルで歩く距離ではなかったかもしれない。隣の大きな公園に住民をとられ、この小規模な公園はぱっと見て人がほぼいない。隣の公園はケータリングが多く、喫茶店も近く、緑が豊富でベンチやピクニックスペースが広く設けてある中で、遊具はない。ただ水で作られるオブジェの装置があるだけ。だがこの公園は突然寂れているが遊具はある。白い格好の男がその公園に入っていくのを佐伯は見逃さなかった。公園に入ると公園の奥にさらに木々に覆われた小道がある。その奥へ入っていく。だが白い格好の男はすでにいなかった。先程通ってきた飲食店に囲まれた大きな公園と遜色ない規模の芝生とピクニックスペースが広がっている。だがそこに白い格好の男はいなかった。芝生の広場と名付けられた公園の脇に続く、木々で陰ったスロープ付きの道を佐伯は選んだ。
 ザリッ、ザリッ、という音が鼓膜を掻くようにくすぐったい。周りを見渡した。公園の出口から見える小さな滝を模したレンガのオブジェ。禿げた垣根がそこからスロープの代わりにあり、土が露出し盛り上がり小さな丘になっている。そこに誰かが立っていた。佐伯に背を向ける形で。垣根に隠れているが両腕の袖を捲り上げている。そして屈み、垣根に隠れてしまう。何か埋めている。白昼堂々。何を埋めているのか。薄いシャツとディムグレイのベストから分かる体格の良さに見覚えがある。白い格好の男とは似ても似つかないシルエット。まだ昼間だが、この時間に公園で何か埋めている。佐伯が抱いた“見覚え”に胡散臭さはあった。仕事のことは触れるなとも言っていた。洒落たスーツを身に纏っていた。そして佐伯の視線の先にも洒落た色の、洒落た反射をするベストを着た者がいる。何より髪型が同じだ。
 佐伯は脹脛の制止も気に留めず、見覚えのある後ろ姿へ歩み寄る。
「なっちゃん?」
 もう呼ぶことはないと思っていた三人称も、脳はまだ捨てる情報として選んでいなかった。後ろ姿が肩を僅かに揺らして振り返る。その間にも捲られたシャツの袖から伸びる腕が土で汚れていることに佐伯は気付いた。
「何してるの?」
 榛名が険しい面で見る。佐伯は榛名が何をしているのか、何を埋めているのか上体を突き出すように覗き込む。タイムカプセルか、と瞬時に思った。視界に捉えたものが白い何かだった。焦点が合っていく。
「楽しいもんじゃないスよ」
 どうしてここにいるのか、とかそういった声ではなかった。小さく市松模様が反射で浮かび上がるチャコールグレーのベストとスラックス、真っ白なシャツを泥だらけにしながら何をしているのかという疑問はすぐに消え去る。
「すっげぇ人懐こかったんス」
 乱雑に掘られた穴の脇に横たわるもの。白い毛並みに斑に灰色が入り、折れそうな脚は投げ出されている。土で汚れているのか別のもので汚れているのか分からないが毛の色とは違う別の色が入っている。
「知ってる子なの?」
「この公園によくいたんスよ。ガリガリだけど実はよく食うんス。他のとは群れなくてさ。いつもじゃれついてくるクセに」
 榛名は静かに言った。唇の合わさる音も聞こえそうだ。
「轢かれちゃったんだ」
「この辺タヌキとか出るし、結構轢かれてんス。珍しいことじゃないんス、珍しいことじゃ・・・全然」
 壊れ物を扱う手つきでその白い物体、すでに亡骸となった猫を撫でる。大きな図体の男が小さく見えた。そしてその手のものは、さらにずっと小さな。
「人間の世界だから、ここ。ごめんな」
 榛名の握り拳よりも小さい猫の頭を撫で、亡骸を穴に飾るように置く。榛名の風貌からは想像しづらい繊細な手。泥だらけの手や、手首に光る腕時計が汚れることも厭わずに。
「急に飛び出してくるの、危ないんスよね。急ブレーキかけたり変に避けたりしても、道狭いですし、この辺通学路でマジで子どもとか多いし、大きな事故にならなくてよかったっスよ」
 独り言なのだろうか。黙々と穴に土をかけていく。下半身から。頭部へ土をかける時、一瞬だけ手が止まったがすぐにまた埋めていった。
「じゃあな」
 仔猫と成猫の中間期ほどの大きさの身体が見えなくなっていく。泥だらけになり、水気を含んだ土がこびりつく榛名の両手が合わさり、暫くそのままの状態が続く。区切りをつけたと言わんばかりに両手を叩き立ち上がる。汚れた土のついた手を佐伯は掴んだ。榛名がぎょっとする。佐伯は持っていたカーネーションのフィルムを剥がし、盛り上がった土の上に2本とも置いた。カーネーションと佐伯を交互に見遣り怪訝な顔をしながら戸惑っている。重ねられたままの手が払われる。
「汚いんで触らない方がいいっスよ」
「汚くないでしょ、別に」
「猫の血とかついてる」
「それは見た」
 榛名は少し納得のいかなそうな面持ちで佐伯を見つめてから溜息を吐く。
「花、いいんスか。誰かに渡すとかじゃなかったんスか」
「この会話前にしなかったっけ」
 公園の中にある水道で手を洗う。両腕を上下に大きく振り水気を払う榛名にハンカチを差し出すとまた訝しむ視線を向けてから黙って受け取った。
「ってゆーかなんで居るんスか」
 躊躇いがちに榛名は口を開く。カーネーションを包んでいたフィルムを小さく畳みながら佐伯は考える。
「この前花の名前訊いたでしょ」
「それがカーネーションだったと」
 榛名が隣に座る。座ったが佐伯と向かい合わないように反対を向いている。
「見て分かるんだ?」
「赤い方が馴染みはあるっスけどね」
 一度だけ佐伯の方へ目を泳がせたが、佐伯を見ることなく榛名は黙る。
「夢の中で咲いててさ。ずっと気になって、枕元に置けばまたその夢みられるかなって」
「じゃあ、回収していくんスか」
「いや?う〜ん、夢の中に男の子出てくるんだ。それ追うみたいにここに来て、なっちゃんに会ったんだけど。もう別にいいかなって。ずっと夢の中で話しかけてるのに何も言ってくれなくて。ま、夢の話なんてしても仕方ないか」
「聞きたいス」
 榛名は静かに言った。佐伯が榛名を見ると、榛名も佐伯を見つめた。
「え?」
「アンタの夢の話」
 吸い込まれるような鷲色の瞳を凝視した。
「知り合いが白いカーネーション、好きだったもんスから」
 何を言ってしまったのか榛名は気付いたらしく目元を赤く染める。
「も〜びっくりすること言うなぁ」
 佐伯も顔が火照るのを感じ笑って誤魔化す。
「夢の中のその男の子見つけた気がして追ったらここに着いたけど、所詮夢だしさ」
「どんな人。何か言ってた?」
「なになに、夢占いでもしてくれるの?」
 返事はない。榛名はどこか遠くを見つめている。
「それよりなっちゃんは大丈夫なの、猫」
 榛名は目を眇めて、鋭い眼が零れそうだ。
「本当はオレが保護すれば上手くいく話だったんス」
 独り言のようだった。埋められる前の姿を思い出す。榛名が抱いたら折れそうな細さで、触れたら散ってしまいそうな華奢さ。狩る側のような外見をしているが中身はその覚悟がつかなそうな双眸が大きく光を反射している。
「飼えない状況じゃなかったんスけど。走れないし遊べもしない狭いアパート閉じ込めておくのも、1人であいつ失ったこと目の当たりにすんのも怖かったんス」
 懺悔の声は消え入りそうだ。榛名の掠れた声は詰まる。
「ばかみたいに覚えてるもんなんスよ。忘れてると思ってたんスけど。マグロ缶よりカツオ缶の方がいっぱい食ったなとか。オレが死なせたようなもんス。ここに来なきゃよかったのに。ここで餌付けなんてして。ここに来ること覚えさせて」
 佐伯は黙って聞いていた。気休めを欲しているわけではなさそうだ。言わずにはいられない、言わずには自分が自分を責め殺しそうな感覚―。知っているつもりはない。そのような経験はなかったはず。榛名の方を向けなかった。佐伯自身知らない自身のことを見透かされ、榛名自身ごと佐伯も責められそうで。
「くだらない話してすみません」
「くだらなくはない」
 力なく自嘲的な笑みを零す榛名が情けなく、だがどこか頼れる大人の男に見えて佐伯は息が詰まった。
「私が掘り返した話だし」
「いいんス。明日からはもうここに来る理由もないスから。気持ちの整理ってことで」
 遠く曇って白い空を見つめる瞳はまるでガラス玉のように澄み、汚いことを知らなそうだ。手を伸ばして抉ってしまいそうだ。
「もうここには来ないの?」
「隣の公園知ってます?あっちにいた方がいいのかも。得意じゃないんすけど」
 喫茶店やレストランに囲まれた大規模な公園の方を指す。頷くと「人酔いするんで」と続く。この公園は規模が大きすぎるが故に人気が無い。木々が茂り周りから遮断されているような雰囲気もあるのだろう。
「カーネーション、どうもっス」
「クッキーのお返しっていうにはしょっぱいけど」
 榛名は捲り上げられたままの袖を直しながら立ち上がる。そろそろ行きます、と言って曇った世界へ向かっていく背中。一度だけ佐伯の様子をみるように振り返った榛名は派手な主張の強い顔をしている。あの男とは似ても似つかない。
「待って!」
 カーテンに呑み込まれていく地味な男と重なった。瞬時に立ち上がって何かを掴もうとして伸ばした手は空を掻く。あの男と違い、目の前の男は歩を止めた。そこにいる。形がある。待っている。
「どうかしたっスか」
 何も知らない、穢れも知らない子ども。無邪気な犬。ガラス玉のように光る大きな双眸。心臓が潰れて温かい血液が胸から広がっていくような、それでいて穏やかさと不穏さを併せ持った気分。
「なっちゃん」
 呼ぶと首を微かに傾けて目を大きく開く。ぴくりと動く眉が愛しい。
「気を付けてね」
「はい?」
 予想外なことを言われたらしく榛名は間の抜けた声を上げた。
「え、いや、ほら色々。事故とか病気とか」
 佐伯自身にも予想外だった。どういうつもりで言ったのか佐伯も分からなかった。そうするのが自然のように口をつく。
「・・・っス」
 榛名は佐伯に背を向けてから腕を上げた。チャコールグレーのベストとそこから伸びる白いシャツ。後ろ姿を見えなくなるまで見つめた。
 榛名の野生的で粗暴な印象が嘘のようだ。繊細で理性的な、それでいて不器用な男。第一印象と全く違う榛名は何の違和感も残さず佐伯の中に浸透していく。


 それ、カーネーションでしょ。何度目か。多くはないがすでに見慣れた部屋。水浸しなのもおそらく何かの故障ではない。窓の桟に片手をついて、佐伯を振り向きながら立つ、真っ白い格好の男。お互い裸足で目線はほぼ同じ。男性にしては小柄な茶金髪の男と女性にしては長身な佐伯。床に咲き乱れ揺れるカーネーションを指で差して問う。もうこの茶金髪の男が誰であるのか、ここがどこであるのかはどうでもいいことだった。
 茶金髪の男は柔らかく目を瞑り、穏やかに口角を上げて、緩やかに首を縦に振る。
 今日、カーネーション買ったの。またゆっくりと茶金髪の男は目を開く。冴えない、端整でもないが色気を帯びている幼い外見をして、雰囲気は十分に大人びている。
 持って来ればよかったね、でも新しくできた友人の猫のお墓に供えたんだ、カーネーションってお墓に供えていいのかな。茶金髪の男は黙って聞いている。何も言いはしない。佐伯が一方的に喋り、たまに茶金髪の男が反応を身で表すだけ。
 何か、言ってよ。求めれば応じるだろうか。だが茶金髪の男は困ったように笑うだけ。覗く八重歯が子どもらしい。
 その新しくできた友達ね。茶金髪の男はゆっくりと瞳を伏せる。子守歌を聞くような、安らかな目元と口元。こくりと頷いた。
 見た目、めっちゃ怖いんだ、でもすごくいい子で。話せば話すほどじわりじわりと胸に広がる熱。締め付けられるような。犬のようなそれでいて純粋な子どものうような男の話をしたい。だが胸が制すように締まり、痛み、呼吸を阻む。
 あなたのこと、彼に。何故そうしようと思ったのかは分からない。茶金髪の男が泣きそうな顔をしたように思えた。佐伯の直感とは裏腹に茶金髪の男は佐伯を見つめて笑んでいる。広がる安堵感。この者を知っているような気がして、けれど佐伯に思い当たる節はない。おそらく名を教えてくれはしないだろう。下手なことを訊ねると消えてしまう。それが佐伯は恐ろしいことのように感じた。
 いいよ、もう少ししたら教えてあげる。茶金髪の男が悪戯っ子のように歯を見せ笑う。鋭い八重歯がやはり雰囲気に取り残されたように幼い。鼓膜を揺らすことなく響く茶金髪の男の声。細まる双眸は涙袋に消えそうだ。
 もう少ししたら?まだ教えられないということ。ごめんね。茶金髪の男の表情が曇り、佐伯はその頬へ手を伸ばす。そんなカオしないで、そう出かけた言葉は光に呑まれる。

 またか。佐伯は突っ伏していた顔を上げる。両腕を枕にして公園で眠ってしまった。酔っ払いのようだ。同じ夢。内容は違うけれど、同じ人、同じ場所。いつもいいところで目が覚める、それは“いつもの”夢と同じだけれど。
 欠伸をしながら脳が状況を整理しだす。榛名に会った。猫を産め、佐伯はそこにカーネーションを供えた。榛名の背を見送り、それから茶金髪の男に夢の中で。
 身体を伸ばすと左手に違和感を覚える。全く見覚えのない輪。金属だろう。だが錆び、元は金色だったのか銀色だったのか。古びた硬貨と似た斑模様に変色し、輪は歪んでいる。指に嵌まっているが指輪というには古く傷み、輪としては機能しないほど形を崩している。左手の薬指にほぼガラクタと化しているその輪を外した。気味が悪い。無防備に寝ていた自身の非を認めるしかなかった。慣れることはないが慣れてしまう数だけこういうことが佐伯の歳の半分以上の時分で何度もあった。成長とともに顔が引き締まり、顔立ちがはっきりとしてからは。背も伸び、胸が発達し、ある程度の膨らみと身体の丸みを帯びてからは特に。“そういう”つもりでなかったことが“そういうつもり”と受け取られてしまう。衝動的にその輪を投げる。行動の説明がつかないような、酸素を得た炎のような怒り。音も立てず、その輪は放物線を描き視界から消えた。汚いと思った。それは輪の古さや錆びの汚れとは違う。左手の薬指を何度も擦る。いずれ誰かが嵌める場所。寝ている間に誰かにされたその行為。勝手に身体を暴かれたような気分で、佐伯は何度も擦る。と同時に何も嵌まっていなかった今までの感覚にさえ違和感と奇妙さを覚えた。もともと何かが嵌まっていた。指に。指輪以外に思いつかない。だが何か。
 公園は静かだ。佐伯の思考を止めるものがない。指輪から連想される人物が1人だけいる。だが顔も名前も思い出せない。1人というのも自信がなかった。思い出せそうで思い出せない人物と、その光景だけが浮かび、それが明確な現実であるとは佐伯には思えなかった。
 誰。夢の中で問うたこと。誰なの。1人だけ思い出せない。爛れた付き合い方をしていたはずはない。入れ込んだ相手だろうおそらくは。誰。記憶の奥底に貼りついて、剥がすことを試みるが頭文字すら分からない。
 忘れていいよ、忘れていて。都合の良い幻聴。この幻聴が佐伯の本心か。自嘲する。夢の中の男の声に似ていた。鼓膜を揺らないあの声がこびりついているだけか。聴覚に訴えてこないくせ、男性にしては少しだけ高めな声。夢の中の男の声だ、何の疑問もなくそう思った。
 忘れていいんだ、何もかも。
 何もいない。人の気配もしていなかった。
 もしかしてあの指輪、あなたの?
 夢の中と同じように訊ねた。だが返事はない。ここは夢の中ではないのだから。
 夢の中の人物の物であるはずがない。夢の中なのだから。割り切ることはできなかった。衝動的に投げた輪が落ちたであろう場所へ徐ろに歩み寄る。見つかったところでどう夢の中へ渡すというのか。考えもなしに投げ、考えもなしに指輪が落ちていないかと視線を地面に巡らせる。微かに見えた猫の墓に置かれた場違いな白のカーネーションがそよ風に揺れる。
 寂れた公園だ。芝生の大規模な広場はあったが球技は全面禁止になっている。入口に面した遊具がある公園は小規模過ぎる。隣の大規模な公園は遊具こそないが水のオブジェや設備の整ったトイレ、多目的スペース、種類の豊富な自動販売機がある。この公園は新興住宅街の中にあるが生い茂る木々で隠されたように、どこか置いてけぼりを喰らっているような気がした。湿った地面を見回しながら、サンダルのヒール部分のおかげで屈みこむことは楽だ。俯きながら小石ひとつひとつを数えるように目を移していく。もっと遠くへ飛んだのだろうか。音はしなかった。音がするような質量ではなかった。
 突如、佐伯の頭が軽く押さえ付けられる。突然のことに反射的に何者か、何事かと顔を上げようとするが軽く押さえ付けられているつもりでも頭が上がらない。変質者か、具体例が浮かび汗ばみはじめる背筋。
 怖がらないで。地面に着く裸足が視界に入る。あの茶金髪の男だとすぐに佐伯は理解した。真っ白い裾から見える裸足は骨張っている。頭部を押さえ付けられたまま怖がらないでと茶金髪の男は言った。白昼夢にしては鮮明に映る。足の爪に走る縦筋も数えられるくらいに。
 気にしないで、もう忘れて。茶金髪の懇願に、何を、と返したいが喉が固まったように声が出ない。ごめんなさい、あなたの指輪。突然沸点まで上り詰めた怒りによって投げ捨てたことを詫びねばならない。そしてすぐに冷え込み、こうして探していることを伝えねばと。だがやはり、あれが茶金髪の男の物であるはずがない思いながら、茶金髪の男の物であると思わずにいられない。
 捨ててくれていいよ、おれには捨てられなかったから。茶金髪の男の押さえる手が撫でているように感じられた。懐かしさと擽ったさと安堵感。悲しさなどひとつもなかったが目頭がきゅっと締まる。視界に波が起こり滲んでいく。
 探す、探すから、待って、お願い。ぽたりと溢れた雫が地面に光る。もう会えなくなるかもしれない。そうは言っていないけれど、茶金髪の男がそう言い出しそうな予感して佐伯は慌てて繕っていく。探すから、探すから待って。祈るみたいに内心繰り返せば口にも出ていた。線香の煙が消えるのと同じ様で茶金髪の男の裸足がふっと消え、頭部を押さえ付ける手の感触が消える。佐伯は頭を上げる。涙が頬を伝って湿った地面に落ちていく。痛みも悲しみも苦しさも喜びもない。胸に僅かな寂しさだけは残っているけれど。


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