龍の宝珠
九
そう説明してくれた聡影は、笑って続けた。
「しかし、その不具合がいつどこで生じたのか、私にも判然としないんだ…それは自分でも不思議だ」
「気付いたら壊れているなんて、よくあることではございませんか。形あるものはいつか壊れます。もっとも、そういう大切なものでしたら、きっと大事に保管なさっていたのでしょうが」
「そうだな、大切にしていたんだが…。“あれ”はどこへ行ったのやら」
「なくなってしまったのですか?」
「ああ、その一部分が欠けてどこかへ行ってしまったんだ」
「でも探したのでございましょう?」
「ああ、心当たりのありそうなところはね。でも見つからなくて」
「そうですか…。でももっとも、陛下がすべてご承知なのでしたら、何の問題もございませんでしょう」
そうだな、と聡影は笑ってうなずいた。
だが次いで、不意にその聡影が言ったのだ。
「…それは?」
「えっ?」
摘花が思わず足を止めて聡影を見やると、彼の視線は自分の手の中にあった。
そこで初めて摘花は、自分が大事な錦の袋を握り締めていたことを思い出したのだ。
「あ、これはあの、何でもないんです」
そう言って、慌てて懐にしまった。
だが、それからちらっと聡影を見やった摘花は、あっと思った。
かすかにだが、聡影は寂しそうな表情を見せたのだ。
瞳の色がかげる。
この人に、こんな表情をさせてはいけない。
阿周によく似た瞳を持つこの人に、こんなに寂しい表情をさせてはいけない。
自分はそんな顔は見たくない。
まるで、阿周を悲しませているようだから。
「あの、これは」
摘花は慌てて口を開いた。
「昔の知り合いの形見なんです」
「形見…?」
「はい」
聡影にであればいいだろうと、摘花は言葉を選びながら口を開いた。
「趙修令さまのご子息のものなんです。お小さい頃に亡くなられた」
「……趙修令の」
「はい、あの…ご存じでしょうか」
「ああ、それは知っている。……確か、もう十年くらい前のことだったか」
「ええ。その方に、わたしはとてもかわいがっていただいたんです。以前お話し申し上げた、小さい頃道に迷った際に見つけていただいたのはその方なんです。でも急に亡くなってしまって。その形見なんです」
「……随分と大事にしているようだ。もう十年もたつのに」
「そうですね」
摘花はうなずいた。
「わたしにとってのお守りなんです」
「……」
「亡くなったのがあまりに突然のことでして、そのときはなかなか信じられませんでした。いまだに、まだ信じられない気持ちが残っているようなんです。こうして形見も持っているのに。その話を父にすると、また叱られるんですけど」
叱られる、という言葉に聡影はほほ笑んだ。
だがすぐに、そのほほ笑みは消えた。
そしてそのまま、口を閉じてしまったのだ。
無言になった聡影を、摘花はどうかしたのかと見つめた。
自分は、何か変なことを言っただろうか。
その視線にすぐに気付いた聡影は、すぐにまたほほ笑んだ。
「いや、なんでもない。ただその話、聞いているとは思うが、母上には聞かせないでやってほしい。気分が不安定になりがちなときだし、きっと気にしてしまうから」
「はい、それは趙修令さまからうかがっています」
それならいいと、聡影はうなずいた。
だがその聡影を見た摘花は、もしかしてこの人にも話さないほうがよかったのかもと思った。
表情が妙にかげっているのだ。
先程とは違って、寂しさではなく困惑の色だ。
「聡影さま、申し訳ございません、つまらないお話を申し上げてしまって…」
「いや?」
摘花がそう言うと、彼はほほ笑む。
「そんなことは。ただちょっと、驚いて」
「え?」
何を驚いたのだろう?
「趙修令の息子のことを、おまえのほうこそ知っていたなんて、とな。まして今でも頭の中にあるとは。もう十年も前のことなのに」
そういうことだったかと、摘花は内心安堵した。
「十年もたつのに、いまだにその形見を大事にしているほど、忘れられずにいるなんて…」
だがそう言いながらも、聡影はまた表情を曇らせた。
ちょうどそのとき、摘花の目に趙修令の姿が入ってきた。
「あ」
摘花の声に、聡影も趙修令に気付いたようだった。
だが聡影は、気付いたにもかかわらず摘花に言ったのだ。
「そうだった、もう私は戻らないと。人と会う約束があるんだ」
「え?趙さまは聡影さまにもご用がおありなのでは」
「あるなら改めて私のところへ来るよう、おまえから言っておいてくれ。じゃあ」
聡影は言った。
「また明日」
また明日、というのはその通りだった。
聡影は毎日ここへやってくるのだから。
庭を大股に横切って歩き去る聡影を見やりながら、摘花は慌てて趙修令のところへ駆け寄った。
「摘花、どうした?聡影さまは?」
「もしかして、わたしはまた軽率なことを…」
「?」
「聡影さまに、阿周さまのことを少しお話し申し上げてしまったんです。そうしましたら、ご様子が少し…」
「阿周の?」
「聡影さまにも、お話し申し上げないほうがよかったのでしょうか」
趙修令は、去っていく聡影の背中を見やった。
背の高い聡影が早足で歩いているので、あっという間にその姿は遠ざかってゆく。
「……いや、それはないから大丈夫」
「そうでしょうか。確かにご存じだそうですし、わたしが知っていることに驚いたとおっしゃっていましたが…」
「そうだな、そんなところだろう」
「……」
「大丈夫、あとでわしから、おまえが気にしていたと伝えておこう。それよりおまえ、班夫人をやり込めたそうだな。侍女たちが皆興奮していた」
趙修令は苦笑した。
趙修令は皇帝のところへ来ていたそうだ。
騒ぎはすぐに伝わったらしく、様子を見に来たのだった。
「皇后様がいたく安心なさっていらして、ほっとした。ただ、おまえの父親はまた血相を変えて飛んできたそうだな。まったく洪佑生も大変だ。先日、迷子のおまえを聡影さまが見つけたときも慌ててやってきていたし」
趙修令は、まるで他人事のように笑う。
それは、それがまったく大したことではないからだった。
彼はさらに言葉を継いだ。
「昔、阿周がおまえを街で見つけて屋敷に連れ帰ったときも、真っ青になって飛んできていたな……」
そう言って、彼が懐かしそうに見やったのは、もう消えかかっている聡影の背中だった。
その夜のこと。
また明日と言った聡影が再度やってきたのだ。
この時間に聡影が来るのを見るのは摘花にとって初めてだった。
「あら、こんな時間にお珍しいわね。どうなさったのかしら」
と他の侍女たちも言う。
摘花もどうしたのだろうと思いつつ出迎えた。
ひょっとしたら班夫人の件だろうか。
それとも阿周の話の件だろうか。
と、不安を感じていたのだが、それは聡影を見た瞬間にひとまず脇へ追いやられた。
聡影には、同伴者がいたのだ。
聡影と似たような年頃の。
一緒に出迎えた侍女が言った。
「まあ、光賢さままで」
その名前に聞き覚えのあった摘花は、思い当たったときに信じられないと思った。
光賢とは、班夫人の生んだ皇子の名だったからだ。
聡影の異母弟だ。
聡影より二つか三つ、年下だろうか。
母親が異なりはするが兄弟なだけあって、二人はどことなく似ている。
聡影はもちろん母后に会いに来たのだが、それになぜ、よりによって光賢まで連れてくるのかは摘花には初めわからなかった。
すると摘花のそばにいる侍女が、摘花にこっそり教えてくれた。
「聡影さまと光賢さまは、日頃から仲がよくていらっしゃるのよ」
「そうなんですか?」
「お小さい頃からよく一緒にいらっしゃるそうよ」
えっと思って聡影を見やった摘花は、その聡影と目が合った。
聡影はいつものようにほほ笑む。
「ああ摘花」
だがそれから、彼は隣の弟に向かって続けたのだ。
「光賢、この子がその摘花だ」
すると光賢は、摘花に言ったのだ。
「昼間は母上のせいで嫌な思いをさせて申し訳ない」
「えっ?」
突然の謝罪に、摘花は目を丸くした。
無礼だと叱責されたほうが、まだ驚かなかったかもしれない。
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