龍の宝珠
五
そのとき、柱の向こうから誰かが外に出てきたのが見えたのだ。
二十歳くらいの、背の高い、素晴らしく上質の絹の衣装を身にまとった青年だった。
さっそく声をかけてみようと思って、摘花はそちらに近づいた。
気配に気付いたのか、青年はこちらを見やった。
だがその瞬間、摘花は息が止まるかと思うほど驚いた。
その青年は、阿周にそっくりだったのだ。
正確には、阿周の十年後の姿に。
摘花が日夜思い描いていた、阿周の成長後の姿にそっくりだったのだ。
「あ…阿周さま?」
その声も、のどに張り付いて外には聞こえてこない。
だが、すぐに摘花は慌てて首を横に振った。
違う、そんなはずはない。
そんなことがあるわけがない。
単なる他人の空似だ。
阿周であるはずなどないのだから。
第一、自分が知っている阿周の姿は十歳当時で、似ているといっても所詮は想像に過ぎないのだ。
青年のほうも、突然そこにいた摘花に驚いたようだった。
一瞬目を見開くと、何か口の中でつぶやいたようだった。
しかし、彼のほうがその驚きをおさめるのは早かった。
摘花がまだ半分茫然としている間に、青年はこちらにやってくると、穏やかなほほ笑みを浮かべて摘花に尋ねたのだ。
「こんなところで、一人でどうしたんだ?」
「あ…」
話しかけてもらったのは幸いだったのに、摘花は間近で見る青年の姿にさらに動揺してしまっていた。
近くで見ると、彼はますます阿周にそっくりに思えたのだ。
優しい話し方も、阿周にそっくりな気がした。
そしてなんといっても、ほほ笑みが阿周のものと瓜二つだったのだ。
そう見えたのだ。
摘花が何も言えないでいるうちに、青年のほうから口を開いた。
「もしかして、趙修令が紹介したという侍女では?母上のところに来るはずの」
趙修令が紹介、というところで摘花は慌ててうなずいたが、すぐにまた混乱した。
この人はなぜそれを知っているのだろうか?
そして、仮にも元宰相である趙修令を呼び捨てにするとは一体?
さらに、この状況で「母上」と言ったが、それもまた一体?
誰が誰のことを指しているのだろうか?
さらに混乱した摘花の目に、青年の背後から別の男性が二人やってきた様子が映った。
「聡影さま、お待たせいたしました。……その娘は?」
あっと思った。
「ああ、母上のところに新しく来た侍女だ。趙修令が、今日連れてくると言っていた。洪佑生の娘だそうだ」
「その方がなぜこちらに?」
「一人で歩いていて道に迷ったんだろう?」
聡影は答えながら、最後は摘花に確認するようにこちらを見やった。
それに摘花は大きくうなずいた。
思わず、二回も。
そして、ようやくすべてを理解した、と思った。
理解したと思うと、今度は慌ててしまった。
いま目の前にいる立派な青年は、聡影なのだ。
母上というのは、皇后のことだ。
皇子である聡影にとり、趙修令は臣下なのだから、呼び捨てにして当然だ。
そして趙修令は、聡影に自分のことを話していたのだ。
「ここは私の住まいだよ。おまえはどこから歩いてきたんだ?趙修令は?一緒に来たのではないのか」
「は、はい」
そこでようやく摘花は、これまでのことを話した。
すると、聡影はおかしそうに笑い出した。
「では今頃、趙修令はおまえを探しているだろう。先にとにかく連絡を」
聡影はそばにいた男性に、摘花がここにいることを知らせるよう命じた。
命を受けて、男性のうち一人が下がっていく。
「ちょうどよかった、私も今から母上のところに行くところだ。送っていこう」
「送るだなんてそんな!めっそうもございません、一人で…」
といっても、一人で帰れないから、こうして迷っているのだった。
自分でそれに気付いた摘花は、口を閉じてしまった。
それにまた聡影は笑う。
「ではとにかく行こうか」
聡影が歩き出したので、摘花もその後を追った。
「きっと、母上が趙修令と話し込んでしまったんだろう、おまえには待たせてしまって悪かったね」
「とんでもないことでございます。わたしが待ちきれなくて、勝手に…」
それを聞くと、聡影はまたおかしそうに肩を震わせた。
「まあ確かに待つには長い時間だったろうが、花を眺めているつもりがこんなところまで歩いてきてしまうなんて」
「はあ…。気がつくと、どこにいるのかわからなくなっていまして…」
どうやら、自分の行動は聡影にとり相当おかしいものらしい。
さっきからずっと楽しそうに笑っている。
「洪佑生の娘と聞いたが」
「はい。申し遅れました、わたしは摘花と申します」
「ふうん…。趙修令が言うには、洪佑生だけではなくおまえとも昔からの知り合いだそうだが」
「はい、以前、父が趙修令さまの部下でございまして、その折にわたしもかわいがっていただきました。十年ほど前のことでございます」
趙修令には阿周という息子がいて、ということは言わなかった。
皇后にだけ話さなければよいのかもしれないが、念のため、皇子の前でも話題にしないでおいた。
阿周になんとなく似ているこの皇子には。
聡影がたどる道は、先程摘花がやってきた道とは違っていて、どうやらこちらが本来たどるべき道であるようだった。
建物がたくさん立ち並んでいて、庭も先程より美しく手入れがされているようだ。
摘花が辺りを興味深げに見回していると、なぜか聡影は楽しげに笑う。
「あ、あの?」
「いや、何でも。先程もここを通ってきたのか?」
「いえ、こんなに建物はなかったので、たぶん違うと思います。ああ、奇妙な形の大きな岩がありました」
「あの奇岩のほうから来たのか?随分と遠回りしたようだな」
と言って、また笑う。
現に、先程の半分くらい歩いたところで、聡影はもう少しだ、と言った。
すると、すぐに趙修令がやってきたのが見えた。
「あ」
趙修令は、聡影と自分とを見比べながらこちらに近づいてきた。
「聡影さま…。摘花、どこに行ったのかと思えばまあ」
「迷子になっていたので連れてきた」
と、聡影はおかしそうに告げた。
「この子がおまえが話していた侍女だろう?」
「え、ええ、さようでございます。聡影さまにもいずれご紹介をと思っておりましたが、まあその手間が省けてようございました」
「じゃあ行こうか」
聡影はそう言うと、そのまま趙修令と摘花とを連れて皇后のもとへと向かった。
ただその途中で、趙修令に少し心配そうに話しかけた。
「いま、母上はどうかしたのか?」
「いいえ、大したことではございません。ただ…いつものことを少々心配なさっているだけでございました」
「ああ…本当に心配性でいけない」
今度こそ皇后のもとに向かうと、皇后はまず聡影を見てうれしそうにほほ笑んだ。
「母上、ご気分はいかがでございますか」
「ありがとう聡影。大丈夫よ」
続いて、趙修令がようやく摘花を紹介した。
「皇后様、この子がお話し申し上げた洪佑生の娘でございます。大変元気な娘でして、皇后様のご気分も少しは晴れるのではないかと存じます」
「あなたも、そんなに心配してくれなくても大丈夫よ。あなたにはいつもいつも心配をかけますね。摘花といったわね、これからよろしく頼みますよ」
そう言ってほほ笑む皇后は、そう思ってみるからか、確かに少し顔色がすぐれないように見えた。
摘花が挨拶を済ませると、趙修令は別の侍女を呼び、彼女に摘花を託した。
部屋を去るとき、摘花は室内の三人に丁寧に礼をしたが、聡影をちらっと見て改めて動揺した。
聡影は今はほほ笑んでいる。
ほほ笑んで、摘花に声をかけた。
「母上をよろしく頼む」
廊下に出たところで、摘花はこっそりとため息をもらした。
「摘花さん?大丈夫?」
「え、ええ」
ああ、こんなところで阿周に似た人を見るなんて。
それがよりにもよってこの国のお世継ぎだなんて。
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