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龍の宝珠

 噂や憶測ではなく、誰もが知っている事実。
 それはあのとき、他ならぬその両親が、阿周は死んだと言ったことだった。
 そして、阿周は自分の前に二度と姿を現さず、その存在は風の便りにすら聞かないということだった。
 やはり阿周は死んだのだった。
 この世にはもういないのだった。
 消えていなくなったのだった。

 葬儀のとき、夫人が泣き腫らした目をしていたのを摘花は覚えている。
 趙修令とともにどこか遠くを見つめていた。
 街道の先を見つめていた。
 まるであの道の向こうに阿周がいるかのような、そんな目で。

 葬儀の直後、摘花の父親は別の地方への異動が決まり、趙修令も同様だった。

 阿周がいなくなって十年。

「この十年で摘花は本当に見違えたわね。まあまあ、こんなにすばらしい令嬢になって」
「確かにこの十年で大きくなりはしましたが、中身はあまり変わっておりませんで」
 父親の言葉に、摘花はむっとしたがひとまずは口を開かなかった。
 趙修令が笑う。
「いやいや、もう十分にどこに出しても恥ずかしくはない娘ではないか」

 夫妻と父親の会話を、摘花もしばらくはその場でおとなしく聞いていた。
 知人の近況。
 宮中での噂話。

 だが、頭の中はすぐに阿周で埋め尽くされる。
 もしかしたら、この場に阿周もいたのかもしれないのに。

 もしも阿周が生きていたら、今頃どうしていただろう。
 さぞや立派になっていたことだろう。
 あれから毎日、阿周のことを思わない日はない。
 生きていたのなら、たとえ離れてしまっても書状のやり取りくらいは出来たのに。
 この世からいなくなってしまっては、それさえ叶わない。

 ただ、生きていたとしても、もしかしたら疎遠になることもあったかもしれない。
 でもそれも、生きていればこそだ。
 疎遠になっても、生きているのならいい。
 この世にいないというのだから、疎遠になることもできない。
 すでにもう永遠に疎遠なのだ。

 夫妻の顔を見ていると、阿周のことが思い出されてつらかった。
 ただもしかしたら、それは向こうも同じかもしれなかった。
 自分を見ると、あの頃のことが思い出されて悲しくなるかもしれない。
 生きていたら、今頃はもう二十歳だ。
 さぞや立派な青年になっていることだろう。
 あちこちで活躍して忙しく暮らしていたことだろう。

 三人の会話はいつまでも続く。
 他愛のない雑談を聞きながら、摘花はぼんやりと思っていた。

 父親がここまで自分を連れてきた理由を、摘花はなんとなく察していた。
 それはもしかしたら、自分の結婚に関することなのかもしれなかった。
 趙修令のほうから言い出したのか、父親のほうから頼んだのか、それはわからない。
 いずれにせよ趙修令がよい嫁ぎ先を見つくろってくれるというのだろう。

 何しろ皇帝の覚えのめでたい人物なのだ。
 顔もあちこちに利くだろうし、きっとよい男性との結婚を仲介してくれるというのだろう。

 これまでも何度か、両親がそう言っていたが摘花のほうから断っていた。
 阿周が生きていたら、と思う。
 もしも阿周が生きていたら、阿周と一緒にいたかったのに。

 だがどうやらその気持ちは、両親とも気付いているようだった。
「おまえ、阿周さまはもう亡くなったのだから、いまだ慕ってももうどうしようもないだろう」
「そうよ、あなたがいつまでもそんなふうだと、阿周さまも黄泉の国でお困りでしょう」
 確かにもっとも、阿周が生きていたって自分を選ぶとは限るまい。

 趙修令の紹介となると、きっともう断れまい。
 どこの誰かは知らないが、嫁ぐしかないだろう。

 摘花は一人で肩を落とした。
 するとそれに、夫人が気付いたようだった。
「摘花、どうしたの?気分でも悪い?」
「い、いいえ、大丈夫です」

 夫人は、摘花が先程からただただじっと聞いているだけなのを、少し気にしていたのだろう。
 同時に、話題は宮中の込み入った話になっていて、夫人にはもうあまり関係がないことになっていた。
 そのため、夫人は摘花に話しかけた。

 長旅で疲れたでしょうという話から、摘花は道中の様子を語り始めた。
 話はすぐに盛り上がる。
 摘花が上京中の出来事を、身振り手振りを交えておもしろおかしく話して聞かせると、夫人は涙を流さんばかりに笑い出した。
 笑い声が部屋に響く。

 趙修令も、それにすぐに気を留めた。
 洪佑生が摘花をにらみつけた。
「摘花、よそ様のお宅にうかがったときくらい静かに出来ないのか」
 それに対し、夫人は目ににじんだ涙をおさえながら答えた。
「よろしいんですのよ、さっきから気になっていたんです。あなたはこの子のことを相変わらずだとおっしゃるけど、どうしてどうして、物静かなお嬢さんに育ったじゃないの、と。でもよかったわ」
 そこで夫人は、摘花に話しかけた。
「あなたはちっとも変わっていないのね。いつも元気で明るくて、おしゃべりが大好きだったあの頃と」

 阿周がいたあの頃と。
 確かにあの頃も、自分は阿周の家に遊びに行っては日がな一日はしゃいでいたのだ。

「明るいとおっしゃっていただければ幸いでございますが、家ではただもううるさくて」
「お父さま!」
 と、そのとき。
 趙修令が、自分の隣で涙をおさえる夫人を見て、急に何かを思いついたようだった。
 突然、「そうだ」と言って摘花を見、ついでその隣の洪佑生を見やったのだ。
「趙さま、どうなさいました?」
「佑生、この子を皇后様のもとに預けてみないかね」
「皇后様の?」
「ああ。侍女としておそばに上がらせてはどうだろうか」
「この子をでございますか?」

 急に出てきた話に、摘花も何事かと、ただきょとんとした。

「しばらくの間で結構。ああ、この子の嫁ぎ先をという話は承知した、必ずやよい縁組を整えてやろう。だから、それまでだ」

 帰りの馬車の中で、摘花は黙りこくっていた。
 一方で、父親はあきれたような感心したような顔で口を開いた。
「おまえのその無駄な元気が、よもや役に立つ日が来ようとは」
 確かに。

 趙修令が言うには、皇后は最近、調子がすぐれないそうだった。
 体調がどこか具体的に悪いわけではなく、なんとなく気がふさぎがちなそうだった。
 鬱屈としがちなその気が晴れるよう、摘花に話相手をつとめてほしいと趙修令は言うのだ。

「確かに、皇后様が最近悩みがちであるのは聞いている。班夫人というご側室の方が、皇后様につらくあたっているというのだ」
「なぜですか?」
「どうやら、聡影さまの件で何やら…これは趙修令さまの言だが、何やら言いがかりをつけているというのだ」
「言いがかり?聡影さまとは、確か…」
「そう、皇后様のご実子でお世継ぎの方だ」

 聡影は、皇帝の第一皇子でかつ世継ぎである。
 生母は皇后で、その皇后が唯一生んだ子だ。
 幼少時は病弱で、皇帝も皇后も彼のことをとても大切にいつくしんできたという。
 そして今では心身ともに立派に成長し、二人とも安心しているそうだった。

「その聡影さまがどうかなさっておいでなのですか?」
「いいや、どうもなさっていない。とてもご優秀でご立派な方だ。陛下も、聡影さまにはひときわお目をかけていらっしゃる」
「ではそれでよろしいではございませんか」
「そう、誰もがそう思っているのだが、班夫人だけはよろしくないと思っているらしいのだ。
班夫人は、聡影さまの弟君の光賢(こうけん)さまのお母上にあたる。ご自分の皇子を世継ぎになさろうと、隙あらば聡影さまを追い落とそうとなさっているのだ。
それで最近ではとうとう、聡影さまは陛下のご実子ではないと言い出したそうだ。だから、お世継ぎには断じてふさわしくないと」
「どうしてそんな突拍子もないことを?そんなことはありえないじゃないですか」
「その通り」
 ありえない、という摘花の言葉に洪佑生も深くうなずいた。

「第一、お顔を拝見すればすぐわかることなのだ。聡影さまは、陛下によく似ていらっしゃる。陛下のお若い頃を存じている者は、お若い頃のお姿にそっくりだと言うし」
「ふうん…」
「あまりに突拍子がないからだろう、班夫人のそのなりふり構わぬなさりように、皇后様はすっかり気が滅入ってしまわれているそうだ。さもありなん。おいたわしいことだ」
 父親は、まるでこれが身内のことであるように大きくため息をついた。

 ただ、摘花は疑問に思った。
「ですがなぜ、その班夫人はそんなことを言い出されたのでしょう?そんな不敬なことをおっしゃるからには、何か根拠がおありなのでしょうか?そうでなければ、普通の人間にはとてもそんなこと。考え付きもいたしません」
「……まあなあ」
 父親は首をかしげた。
「確かに、何かしらの根拠はあるのだろう。だが、これは陛下ご自身のお耳にも入っているそうだが、陛下は言いたいなら言わせておけと聞き流していらっしゃるそうだ」
「あまりにあり得ないことだからですね」
「さよう。単なるたわごとだ。だが陛下にもそう思われているのに、班夫人はいまだに言い続けているのはどうしたことなんだろうなあ。あまり言い続けると、さすがに陛下のご不興を買うと思うのだが」
「そうですね」
 摘花も首をかしげた。

「まあ、おまえには関係のないことだ。おまえはひとまず、その無駄な元気を皇后様にお分けして差し上げなさい。皇后様のおそばにはすでにたくさんの侍女がいるのだから、特に難しいことはしなくてもよいはずだ。趙さまもおっしゃっていたように、お話相手だ。
しかしよく趙さまも思いつかれたものだ」
 洪佑生は、今度は感心したように大きくうなずいた。
「聡影さまも、そんなお母君のことをとてもご心配になっているそうだ。いまさら言うまでもないことだが、おまえ、皇后様はもちろん、聡影さまにもくれぐれも失礼のないように。聡影さまはお母君のもとを毎日のように訪れていらっしゃるそうだから」
「はあ」

 自分で役に立てるのであればそうしたいのは山々だが、果たして大丈夫なのだろうか?

 と思ったそのとき、摘花は、自分の懐の奥が一瞬熱くなったような気がした。


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