龍の宝珠
壱
趙修令(ちょう・しゅうれい)は、元高官で、昔から皇帝の信頼はなはだ厚く、要職を歴任し、宰相を数年つとめ上げたところで引退した。
現在は都の郊外の屋敷で、夫人とともに静かに暮らしている。
しかし、第一線を退いたとはいえ今でも皇帝に信頼されていることにはなんら変わりなく、頻繁に宮中に呼ばれては皇帝の相談相手をつとめている。
皇帝の長子であり世継ぎである聡影(そうえい)も、彼のことを信頼していた。
そして趙修令のほうもまた、この太子にとても目をかけており、宮中に顔を出した際はよく聡影のもとにも寄っていた。
この日も趙修令は宮中に向かい、聡影に拝謁を申し入れた。
だが、今日は皇帝に呼ばれたわけではない。
彼は宮中に到着するとまっすぐ聡影のもとに向かった。
これは、ないことではないが少し珍しいことではあった。
趙修令が通された部屋で待っていると、すぐに聡影はやってきた。
今年で二十歳になるこの皇子は大変見目うるわしく、それだけでなく、一国の後継者たるにふさわしい風格もその身にまとっていた。
かしこまって待つ趙修令を見て、聡影は親しげなほほ笑みを浮かべた。
「どうしたんだ?今日は父上には呼ばれていないと聞いているが。何か急な用でも?」
「殿下におかれましてはご機嫌うるわしゅう…」
「またそういう挨拶を始める。そういう堅苦しい挨拶は聞き飽きた」
「いいえ、堅苦しくとも毎回させていただきます。君臣のけじめは大事でございます」
聡影はその言葉にほがらかに笑った。
「もう大丈夫」
すると、趙修令はその笑顔を見て口を閉じた。
そして、まるでまぶしいものでも見るように目を細め、かすかに寂しそうに笑った。
「……さようでございますな。どこからどう拝見しましても、ご立派な皇子以外のなにものでもございません。いえ、つい昔を思い出しまして」
「おや、おまえがそんなことを口にするのは珍しいな」
「本日の用件のせいかもしれません。お耳になさいましたか?洪佑生(こう・ゆうせい)がこのたび都に官を賜りまして、今回は家族をつれて上京するそうでございます」
「家族…?」
聡影はそうつぶやくと、向かいの趙修令から目をそらした。
「ああ、洪佑生の件は承知しているが…」
「以前の都での在官時は、夫人の体調がすぐれなかったそうで洪佑生単身で上京し、家族は夫人の実家におりましたな。夫人は今はもうすっかり元気だそうです」
「それはよかった」
その言葉には、聡影はほほ笑んだ。
だがすぐに、顔からそのほほ笑みは消え去り、あとにはうっすらと戸惑いの表情が浮かんでいた。
「令嬢も元気だそうですよ」
「……」
「お会いになってみますか?」
聡影は、窓の外へ目をやった。
そのまま口をつぐんでしまった彼に、趙修令はそっと声をかけた。
「あれから十年。あの子も十七になります」
「そうだな…」
「洪佑生からの書状によりますと、どうやらそろそろ嫁ぎ先を探しているようで、良い話があればぜひ紹介を…と」
聡影はしばらく無言だった。
そしてその沈黙の後、何かを振り払うように首を強く横に振ると、趙修令を見やった。
「おまえは顔が広いから、よい嫁ぎ先を見つくろってやれるだろう」
「聡影さま、そこでなんですが、もしよろしければ、あの子をおそばに置きませんか。あの頃聡影さまは、あの子をとてもかわいがって……」
その趙修令の言葉を、聡影は笑ってさえぎった。
「何を言い出すかと思えばまた。それはあまりに無謀な話だ。あれから十年もたったんだ、私も変わったし、あの子も変わっただろう。いまさら昔の事を持ち出して、どうこうする必要はあるまい。ましてやそばに置くなどと。あの子のほうにだっていろいろとあろうに」
「確かにそうではございますが、でもせめて、お会いになってはみませんか?お懐かしゅうございましょう」
「いや、そんな必要はない」
聡影はにこやかに、だがきっぱりと続けた。
「会っても、この私には何も話すことはないのだから」
そして、ことさらにほほ笑んだ。
「懐かしいことなどあろうはずがない。なぜなら、『彼』はもう死んだのだから」
その言葉を聞いた趙修令は、急に自らを責めるような顔つきになり、うつむいてしまった。
「おっしゃる通りでございますな。わたくしとしたことが、つい……」
「いいんだ、気にするな」
「わたくしがこれではいけませんな。年を取ったせいか、最近は昔のことばかりが思い出されてなりません」
「そんな気弱なことを言うな。まだまだ父上のおそばにいてもらわねば困るのに」
だが趙修令の表情はさえない。
それを見て、聡影はなぐさめるように言葉を続けた。
「確かに私も、先程父上から洪佑生の件を聞いて、気にはなっていた。あの娘は元気でいるのだろうかとな。相変わらずなのだろうか」
「書状にはそう書いてございました。相変わらずだ、と。都に着いたら、娘も連れて顔を見せに来るそうです」
「じゃあおまえから話を聞けばいいな。聞かせてくれるだろう?」
趙修令はそこでようやくほほ笑んだ。
「では、昔の件はもう置いておきましょう。いずれにせよ、聡影さまももうそろそろ妃を迎えねばなりません」
「なんだ、結局その話か。今はまだいい」
「そうは参りません。陛下も大変にお気をもまれておいでですから」
「それはわかってはいるが、何しろ母上のことが気がかりで」
それを聞いた趙修令は、今度は心配そうに顔をしかめた。
「確かに皇后様は、最近とみにご気分が不安定でございますな。班夫人は、これまた相変わらずだそうで」
「母上が聞き流せばよいのだが、なかなか」
「最近では、聡影さまがわたくしとお会いするだけで不安になると耳にいたしました」
聡影は困ったようにため息をついた。
「何か気晴らしをなさったほうがおよろしいかと存じます」
「そうだな。おまえも、もし何かよい手立てを思いついたら教えてほしい」
「かしこまりました。…ですがそもそもは、あれもまたわたくしの不注意なのでございます」
「いや、何度も言っているように、それは違う。あれは私の不手際だ。まさかなくなっているとは思いもよらなかった」
聡影は、そう言いながらなぜか楽しそうにほほ笑みを浮かべた。
「……そう、あの子なら知っているかもしれないと思うんだ」
「え?」
「いや、何でもない」
そして、半分ふざけたように趙修令に向かって言った。
「そう、『父上』がおっしゃったように、私はあれを決して誰にも見せてはおりません。きちんと保管しておりました。にもかかわらずあれがなくなったのは、ただただ私自身のせいなんです」
「……」
趙修令は、困ったように笑った。
困ったように、だがとても親しげに。
まるで、身内に対するように
摘花(てきか)の父、洪佑生は役人をしており、都も含めて全国あちこちに赴任していたのだが、このたび都の中央官庁に栄転となった。
用意された大きな屋敷に入った摘花は、休む間もなく父親に呼ばれた。
「摘花、趙修令さまのところにご挨拶にうかがうからおまえも来なさい」
趙修令と摘花の父とは、以前上司と部下だったことがあり、そのとき以来の付き合いである。
摘花の聞くところでは、今回の栄転も、趙修令の口添えがあったことが大きかったらしい。
そのお礼にうかがうというのだろう。
ではそれになぜ摘花もついて行くのかというと、摘花自身も趙修令とは面識があったのだ。
趙修令が地方の大きな州の長官だったとき、摘花の父親がその部下だった。
その際、摘花は趙修令の屋敷によく遊びに行っていたのだ。
摘花が七つくらいのときだ。
趙修令には摘花より少し上の息子がいて、彼とよく遊んでいたのだ。
趙修令に会うのは、摘花はそのとき以来、十年ぶりだった。
道中の馬車の中で、摘花はうとうととする。
父親の前任地から都までは馬車で五日かかった。
毎朝早くに宿を立ち、日中はずっと馬車に揺られ、慣れない宿で毎晩過ごしてきたのだ。
父親が口を開いた。
「摘花、もうすぐだぞ。起きなさい」
「さすがに疲れてしまって…」
「自業自得だ。それはおまえが、この道中はしゃぎすぎたからだ」
「……」
確かにそうだった。
なにしろ、見るもの聞くものすべてがおもしろくて、朝から晩まではしゃいでいたのだ。
「趙修令さまの前で、ゆめゆめだらしのない格好はせぬように」
摘花は相変わらずうとうとしながらうなずく。
その様子に、洪佑生は苦々しげに娘を見やった。
「聞いているのか摘花。まったくおまえは、昔っから親の話をとんと聞かずに勝手な真似ばかりしおって。あげくあちこちで騒動を引き起こしては、わしが謝りにゆく羽目になるのだ」
「……」
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