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月下のぬくもり

言い含められた桂秋が先程と同じ部屋に向かうと、皇帝は先程と同じように椅子に腰を下ろしていたが、今は脚を組んでいた。
そして、はじめからこちらに顔を向けていた。
穏やかな顔をしている。
そのきれいな瞳には力があって、体がむしばまれているという印象はあまり受けなかった。

「そういえば名前も聞いていなかったな」
「郭桂秋と申します」
「いくつになる?家族は?」
「今年で十八でございます。家族は両親がおります」
「父親は何をしている?」
「父は元は役人でしたが、数年前に体調を崩してしまい、今は自宅で療養中でございます」
「そんなおまえがなぜ医者の弟子に?」
「父の主治医が蘇先生でございまして、父のためにわたしも何かできればと、おそばで学ばせていただけるよう願い出たのがはじまりでございます」
「親孝行な娘だ」
皇帝は一つうなずいた。
そして続けて、桂秋に尋ねたのだ。
「それで、その父親の具合はどうなんだ?よくなっているのか?」

その問いに桂秋は驚いた。
そんなことを気にかけてくれるなんて。
自分の体調には気を配らない皇帝だが、他人の体調は気にかけてくれるのだ。
「お心づかいありがとうございます。安静にしていれば大丈夫と先生はおっしゃっています。三日に一度は往診してくださいますし、いますぐどうこうということはございません」
「ふうん…」
皇帝はうなずき、一旦桂秋から視線を外した。
視線の先には、切り立った山岳を描いた大きな水墨画が飾られている。

その絵からすぐに目をそらしたあと、次いでどうでもいいことのように桂秋に尋ねた。
「ところでじゃあ、これがおまえの初仕事だ。さっき、おまえの師匠は俺を診てなんと言っていた?」
「そのことに関しては、陸先生にお聞きになってくださいませ。いまお呼びいたします」

すると皇帝は言ったのだ。
「やつは、俺を心配するあまり本当のことを言わない可能性がある。だからおまえに聞いているんだ」
皇帝は、桂秋をじっと見つめた。
「脈を取る蘇朔の顔つきが一瞬変わったろう。彼は、何か気付くところがあったのではないのか」
蘇朔の表情の変化に、皇帝も気付いていたのだ。

皇帝自らの言葉に逆らうわけにはいかない。
だが、陸仙強の言葉に反するわけにもいかない。
目をそらして口ごもってしまった桂秋を見て、皇帝は静かな声で桂秋に言った。
「もちろん、おまえから聞いたということは言わないから」
「……陸先生は、曜和さまが衝撃を受けられるかもとおっしゃって」
「あいつが俺の身を案じていることはよくわかっている。俺は大丈夫」
「……」
「桂秋」
「……」
そう言われては逆らえず、桂秋は先程の蘇朔の診立てを話した。
毒を摂取している可能性があると。

すると、それに対して皇帝は、桂秋が思っていたほどの反応は示さなかった。
陸仙強が言っていたような衝撃を受けた様子もなく、淡々としていた。
「ふうん」
と悠長に言い、背もたれに寄りかかっただけだった。
まるで他人事だ。
興味のない人間の近況を聞いたかのような、そんな無関心な様子だ。

しかも、続けて言ったのだ。
「やっぱりな。そんなところだろうと思っていた」
「そんなところって…」
その言葉に、桂秋は驚いた。
皇帝自身は想像がついていたとでもいうのだろうか。

桂秋は、思わず一歩皇帝に近づいた。
「大変なことでございましょう。曜和さまのお命を狙っている人物がお近くにいるということでございます。陸先生は早急に調査を始めさせるとおっしゃっておりましたが、同時に、曜和さまはお口になさるものに対し無防備なところがおありともおっしゃっておいででした。周囲もこれまで以上に気をお配りいたしますが、曜和さまご自身にも細心の注意をと…」
桂秋の言葉を、皇帝はさえぎる。

「別に、俺はどうなってもいいんだ。そういうことはあまり気にしていない」
「なぜお気になさらないのですか?ご自分のお体のことでございますのに」
皇帝は笑うばかりだ。
「曜和さま」
「それに、そもそもそれは、まだ未確定なんだろう?」
「それはそうでございますが…」
「大丈夫」
皇帝はにこやかに笑った。
その笑顔からも、本人が自分の病状をまるで憂えていないことがよくわかる。

黙ってしまった桂秋に、皇帝はまた笑った。
そして笑いながら立ち上がり、窓辺に向かった。
先程まで昼間の日差しが差し込んでいたが、いまそれは茜色に変わりつつある。
皇帝の顔にその光が映じ、黒い瞳がほの赤く染まる。

「なぜそんなに自らのお体を粗末に扱うのでございますか?これではいくら周囲が注意を払っても意味を成しません」
「粗末になんか扱っていない。ただ、さほど大事にすることでもないと思っているだけだ。他に優先させることがあれば、そちらが先だ。陸仙強らには感謝している。だが、仕方のないことだ。どこかに俺を恨む者でもいるんだろう」
そう言う皇帝の言葉も、これまたまったくの他人事だ。
陸仙強が困るのもよくわかる。
桂秋も、思わずため息をつきたくなる。

「曜和さまほどご自分のお体をいい加減に扱っていらっしゃる人を、わたしは見たことがございません」
桂秋の言葉に、皇帝は笑った。
「おまえもなかなか言うな」
「曜和さまのせいでございます」

皇帝は楽しそうに桂秋から目をそらす。
と思うと、その瞳は半分伏せられた。
そして笑顔は絶やさぬまま、つぶやくように言ったのだ。
「父上から帝位を受け継いだ以上、俺は他のことも受け継がねばならないだろう」
「他のこと…?」
だが、それに皇帝は答えなかった。

「ああ、俺が知ったことは陸仙強に言う必要はないから。俺はおまえから何も聞いてはいない。もう行っていいぞ」
「はあ…」
「これからよろしく。せいぜいお手柔らかに。おまえはなかなか厳しそうだ」
皇帝はおかしそうに笑った。

他のこと、とは?

それが気にはなったが、桂秋は今はただ失礼いたしますとだけ言い、皇帝の前を辞した。

するとその桂秋の後ろから、皇帝が側近を呼び寄せる声が聞こえてきたのだ。
「後宮に行く。夕食もそっちでとるから」
「かしこまりました。今夜はどなたのところへ?」

側近がさも普通のことのように受けていることから、後宮で食事を取るのはいつものことで特段変わったことではないのだろう。
当然、調査の手は伸びるはずだ。
それに、さすがにいまこうやって話したばかりなのだから、自分でも気をつけるだろう。
とはいえそもそも、こういう話をしてすぐに後宮に行こうと考えるのも、あまりに無防備なことだとは思うのだが。

桂秋がじっと見つめていると、それに気付いた皇帝は笑いながら早く行けと手で示した。


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