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月下のぬくもり
十五
桂秋が寝室に向かうと、皇帝は真っ白な夜着に着替えて横になっていた。
その顔は、窓のほうに向けられている。

枕元に一つだけ明かりがともっている。
周囲は静まり返っていて、どこからか小さな話し声が風に乗って流れてくるだけだ。
まるで今夜は何事もなかったかのように、静かな空気に包まれている。

窓からは、月明かりが差し込んできていた。
皇帝はその光を眺めていたようだったが、桂秋が近くまで来ると今度はそちらに顔を向けた。
「落ち着かれましたか?」
桂秋の問いかけに、皇帝はほほ笑んでうなずいた。
そして、立ったままでいようとする桂秋に、枕元の椅子に座るよううながした。
「先程はいらないとおっしゃっていましたが、よく眠れるようお薬をお持ちしましょうか。煎じてございますので、すぐにお持ちできます」
「いや、大丈夫」
「では、横におなりになっているだけでもお体は休まりますから」
すると皇帝は続けたのだ。
「ふうん。そう言っても、今は飲ませてくれないのか」
桂秋が面食らうと、その顔を見た皇帝はいつものように笑った。
まったく、どこまで冗談なのか。

「……そうお望みであれば、そういたしますが」
「いや、いい」
皇帝は笑顔のまま天井を見やった。
「それより、結局おまえは家に帰れなかったな。明日こそ帰ってこい」
「明日、曜和さまがお元気になっておりましたらそうさせていただきます」
「じゃあ必ず元気にならないと」
「では早くお休みください」
「はいはい」
皇帝は、笑ったまま目を閉じた。
しかし、その顔からすぐに笑みは消え去った。

「曜和さま…?」
心配した桂秋が声をかけると、皇帝は小さな声で口を開いた。
「おまえの父親には、実にすまないことをした。体が元気であれば、再び仕えてもらいたいのだが…。せめて、どうかいつまでも健やかでいてほしいと、俺が言っていたと伝えてほしい」
「曜和さま」
桂秋は首を振った。
「お言葉はお伝えいたしますが、曜和さまはこのことをお気になさる必要はございません」
「そうだろうか…」
「はい」
桂秋が言い切っても、皇帝はなおも続けた。

「父上は晩年、周囲の讒言をお信じになって、その結果多くの人間が無実の罪で処罰されてきた。左遷や流罪、死罪になった者だっている。そんな者たちはきっと、物事を正しく見る目を失った父上に対し怒り、そして激しく恨んだだろう。父上が亡くなり、俺は彼らの冤罪をすべて晴らし元の地位に戻したつもりだ。だが、死んでしまった者に対してはどうすることもできない。
のこされた身内はきっと、あとを継いだ俺を恨むだろう。仕方のないことだ。行き場のない怒りは俺が引き受けねばならない。俺は父上から、恨みも引き継ぐ必要があるんだ」
その言葉に対し、桂秋は即答した。
「いいえ、そんな必要はございません。少なくともわたしはそうは思いませんし、父だってそうは思っておりません」
「ああ、おまえがそう思っていないのはよくわかった。おまえがそう言うのだから、おまえの父親もそうなのだろう。だが…」
皇帝の顔は、つらそうにゆがんでいる。

もしかしたらこのことは、皇帝にとり、自らの体に生じるどんな症状よりもつらいことなのかもしれなかった。
息が苦しいこと、食欲がないこと、頭痛やめまいがすること。
そういったことは、このことの前には何の意味も持たないのかもしれなかった。

恨みなど継ぐ必要はないのに。

「曜和さま、今はもうお休みください。寝しなにおつらいことをお考えになってはいけません。それでは眠れるものも眠れなくなります」
「そうだろうか…」
「楽しいことをお考えになってください」
「楽しいこと…?ああ、そう言われるとあれだ。おまえをからかうこと」
皇帝は目を閉じたまま笑った。
「毎日毎日本当におかしい。そうそれに、さっきだって」
「さっき?」
さっき、何か楽しいことなどあっただろうか?

そこで皇帝は目を開けると、桂秋を見上げた。
「あんなところまでわざわざ薬を持ってくるなんて」
「……」
「おまえが来たと聞いて、初めはびっくりした。まさかここまで来るとはと。だが同時に、やっぱりと思ったんだ。おまえなら来るだろうとな……」
皇帝はほほ笑んだ。
「来てくれてよかった」
桂秋は、その笑顔を見つめた。
優しげな笑顔。
「曜和さま…」

心の奥が、ほうっとあたたかくなったような気がした。

桂秋もほほ笑み返し、そっと目を伏せた。
「……あのとき、すぐにご不調に気付ければよかったのですが……。申し訳ございません」
「いや、おまえは謝る必要はどこにもない。我慢できると思ったんだ」
「どうかもうお一人で我慢はなさらないでください」
「そうだな…」

明かりを消しましょう、と桂秋が声をかけると小さくうなずく。
そっと吹き消すと、部屋がすっと暗くなる。
するとそこで皇帝は、再び窓のほうへ顔を向けたのだ。
部屋が暗くなり、月の光が一層白く差し込んできていた。

月が気になるのだろう。
後宮からの帰路のことを思い出した桂秋は、皇帝に声をかけてみた。


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