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月下のぬくもり
十三
桂秋が出てみると、宦官は言った。
「陛下のご様子はいかがでございましょう。紅芭さまが、お会いしたいとおっしゃっているのですが」
その声は皇帝にも聞こえたらしかった。
だが皇帝はそれに答えを与える前に、横たえていた体を起こしたのだ。
桂秋が慌てて駆け寄る前で、皇帝は一度椅子に座り直した。
「もう戻ったと伝えてくれ」
その声はしっかりしたもので、扉の脇にいた宦官にも聞こえたようだった。
宦官は、一礼して扉を閉めた。
だがそのとき桂秋は、宦官の後ろに紅い衣装を見たような気がしたのだ。
紅い衣装を着た、線の細い美しい女性を。
あっと思ったときには、もう扉は閉まってしまっていた。
もしかしてあれが、紅芭という女性だろうか。

扉が閉まったところで、皇帝はゆっくりと立ち上がった。
大丈夫そうに見えたが、立ち上がるとき少しふらつく。
「曜和さま…」
支えた桂秋に、皇帝はきっぱりと告げた。
「戻る」

外に出ると、夜風が少し冷たかった。
建物の中が暖かすぎたせいもあるのだろうか。
皇帝に尋ねると大丈夫とは言ったが、桂秋は宦官に頼んで羽織るものを持ってきてもらった。
そして、渡してもどうせいらないと拒否するだろうと、直接肩にかけてやった。
そうすると、皇帝は笑うだけで何も言わない。
だが歩き出したところで、後ろから声が掛かったのだ。

「陛下」
女性の声だった。
呼ばれた皇帝は立ち止まって振り返った。
桂秋も振り返ると、そこには紅色の衣装をまとった女性が立っていた。
人目を引く美しい顔立ちは、先程ちらっと見えたものと同じだった。
その華やかな姿は、暗い中でもそこだけ輝いて見えるほどだ。

女性は、立ち止まった皇帝の前に駆け寄ると、優しげな顔を心配そうにしかめた。
「お体はもう大丈夫でございますか?ひどくお苦しみだと聞きました。今夜はこちらでお休みになったほうがよろしいのでは」
「大丈夫」
皇帝は笑って、その女性の髪をなでた。
髪をなでる優しい手つき。
「ですが、以前よりお痩せになったようでございます」
「気のせいだろう。じゃあおやすみ」

後宮にいる複数の女性のうち、皇帝は誰のことも特別視していないと桂秋は聞いている。
誰のところに多く通うということはなく、誰のところにも同じように通っているそうだ。
それがつまり、特に目をかけている女性はいないということを表していた。
一方で、だからこそ女性たちは、我こそはと寵を競い合っているそうだ。
だから今日、紅芭というこの女性は書状を書いて皇帝を呼び寄せたのだろう。
しかしきっと皇帝は、誰に対しても同じように優しくほほ笑んでみせるのだろう。
優しく髪をなでてやるのだろう。

皇帝が彼女に背を向け歩き出し、桂秋もその後を追った。
その前に桂秋は、紅芭に対し一礼した。
一礼し、顔を上げると、彼女は小さく笑っていた。
「…?」
その顔つきを見た桂秋は、少しいぶかしく思った。
一礼した桂秋に対しほほ笑み返す、という笑顔ではなかったのだ。
もっと何か、違う意味を含んだ笑顔だった。
意味ありげな笑みだった。

一人で歩けると皇帝は言ったが、心配した桂秋は宦官に介添えを頼んだ。
いつもの歩調よりもゆっくりと歩く様子から、調子のすぐれないことはすぐにわかる。
視線を常に足元に落としている。
桂秋は、その様子を心配しながら見守っていた。
するとそんな皇帝は、途中でふと足を止めてしまったのだ。
「曜和さま?」
慌てて顔をのぞき込んだ桂秋の前で、皇帝は顔を上げた。
そしてその顔は、そのまま空を見上げたのだ。
「きれいな月だ」
突然そう言われた桂秋は、言われるがまま自分も空を見上げた。
確かに、白い月が紺色の空で静かに輝いている。
いつになく美しい月だ。

「今夜は影がずいぶんと濃いなと思って」
皇帝は自分の足元と、空とを交互に見やった。
確かに月が明るいせいで、夜なのに影が濃くあらわれていた。
月が美しいからか、黒い影もまた美しく、どちらもいつまでもゆっくりと見ていたいような気にさせられる。
だが桂秋は、皇帝に言った。
「そういうことは、また改めてお綺麗な方々とお話しになってくださいませ。今はとにかく早く戻りましょう」
皇帝は笑った。
「おまえはああ言えばこう言う。そうではなく……ああ、そもそもおまえは、後宮には行くなと言っていなかったか?」
「行くなとは申しておりません。少し控えられてはと申しただけでございます」
「そうか…。まあ同じようなことだな」
皇帝は笑顔のまま、もう一度月を見上げた。
「曜和さま、今はお早くお戻りに」
桂秋がせかすと、皇帝は再び歩き出した。
ただそれでも月が気になるようで、時々空を見上げていた。


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