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月下のぬくもり
十一
側近が慌てて陸仙強のもとにやってきた。
「食後のお薬はと申し上げたのですが、一回や二回飲まなくとも構わないとおっしゃって」
それを聞いた陸仙強は苦虫を噛みつぶしたような顔で、一晩くらいはいいだろうと言った。
「さすがに後宮まで追いかけてゆくわけにもいかんだろう。お戻りになってからでいい。夜は必ずお戻りになるのだから。ただ、そのときには必ずお飲みいただくように」
その場にいた桂秋はうなずいた。
だが、食後すぐのほうが効き目は高いはずだ。
そう考えた桂秋は、すぐに提案した。
「では、わたしがお届けにあがります」
「おまえが?まあ確かに、おまえなら後宮に入れるが」
後宮には男性は入れない。
その点、桂秋なら問題はない。

しかしそれを聞いた側近は、困ったように桂秋に言ったのだ。
「陛下がおっしゃるには、ご自分のことは気になさらなくていいから、桂秋さまにはきちんとおうちにお帰りになるようにと。これは命令だと…」
だが、命令とはいえこんな状況で帰れるわけはない。
「では、お薬をお届けしたら帰らせていただきます」
その場で煎じた薬を湯のみに入れ、蓋をし、桂秋はそれを大事に抱えて後宮に向かった。

宦官に案内された桂秋は、一つの大きな建物に案内された。
今夜皇帝は、ここにいるという。
建物に入った瞬間、むせ返るような香りに包まれる。

「陛下には先程お夕食をお済ませになったばかりでございます。いまお声をおかけしてまいりますので」
宦官は、桂秋を小さな部屋に通したあと、そう言って廊下へ出て行った。

残された桂秋は、室内をぐるりと見回した。
金色の燭台の上で明かりが静かに揺れている。
紅い敷物の上に、絹張りの長椅子が一つ。
壁際には小さな腰掛があり、花模様の刺繍が施された薄布が置いてある。
立ちのぼる香の煙。
黒くつややかな小さな卓。
その脚には細かい彫刻が施されている。
手の中に大事に持っていた湯のみを、桂秋はその卓上に置こうとしたが、すぐにやめた。

部屋を見回せば見回すほど、桂秋は自分がここにいることが場違いに思えて仕方がなかった。
繊細な調度品。
飾り棚の上で水晶が明かりを受けてきらめく。
とろけるように光る大粒の真珠。
窓辺に置かれた深い緑の翡翠。
ここは、頭のてっぺんから足の先まで美しく着飾った女性のための部屋だ。
地味な服に身を包んでいる地味な自分は、この空間ではどう考えても異質だ。
この薬を飲んでもらったら、早く戻ろう。

そう思っていると、足音が近づいてきた。
足音は部屋の前で立ち止まることなく、そのまま部屋の中に入ってきた。
扉が外から勝手に開いて入ってきたのは皇帝本人だった。
そして桂秋を見て、驚いたように目を丸くした。

「本当におまえか。なぜおまえがこんなところまで」
「陸先生はこちらにはいらっしゃることができません」
「そうではなく…」
そこで皇帝はため息をついた。
「薬か。おまえは本当に真面目だな。言付けを聞いただろうに」
「こちらをお飲みになったのを見届けてから帰ります」
「それこそ、誰かに言付ければよかろうに」
「そういうわけにはまいりません」
皇帝はあきれたようだった。
桂秋を見ても、笑うそぶりすら見せない。

「まさかこんなところまで来るとはな」
「…どうぞ」
桂秋が湯のみを差し出すと、無言で受け取り飲み干した。
そしてそれを桂秋につき返した。
受け取った桂秋は、一滴も残っていないことを確認して一礼した。
「ではわたしはこれで失礼いたします。お言葉に甘えて、自宅に帰らせていただきます」
「……」
そう言っても無言の皇帝は、若干怒っているようにも見えた。
皇帝が怒るのを、桂秋は初めて目にした。
不愉快そうにかすかに顔をしかめ、視線を斜めに落としている。
そして、何も言わない。

こんなところにまでやって来られては、さすがにうっとうしいと思ったのだろう。
仕方がない。
これが自分の役目なのだ。
寵愛を得るべく、ご機嫌を損ねないよう常にほほ笑んでいることが自分の役目ではないのだ。
つらいことだけれど、仕方がない。
とても悲しいことだけれど。


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あきゅろす。
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