欅(けやき)の木陰にて憩う 九 涙は後から後からあふれ出る。 そんな涙を海靖は、自分の胸元で受けるように、梨夜をさらに抱き寄せた。 「どうか許してほしい」 「……」 梨夜はうなずいた。 だがうなずきながらも涙は止まらない。 海靖は、梨夜の涙が収まるまで、じっと彼女を抱き締めてくれていた。 何も言わずに、ただじっと。 梨夜の涙が落ち着いたのは、だいぶ時間がたってからだった。 それを見た海靖は、そこで初めて梨夜から腕をはなした。 「もう戻って休みなさい。明日の朝も早い」 梨夜がうなずくと、海靖は小さくほほ笑んだ。 小さなほほ笑み。 それを見た梨夜は、久しぶりに自分の心があたたかくなったような気がした。 おそらくは、父親を失ってから初めて。 翌朝から、梨夜は海靖のそばでその身の回りの世話を始めた。 これくらいしか、今の自分には出来ないのだから。 そう思い、こまごまとしたことまで黙々と行う梨夜を、海靖はいつも気づかってくれる。 海靖のそばにいるようになった梨夜はすぐ、彼のもとに数人いた将軍たちのうち、二人ほどその姿がないことに気付いた。 「彼らはこの軍から離れ、独自に都に帰るのだろう」 海靖はこともなげに言った。 「父上にだいぶ目をかけられていた人間だから。都に戻り、父上に報告でもするのだろう」 海靖の率いていた軍には、皇帝側の人間もいたのだ。 それを知った梨夜は、海靖が計画を自分に話さなかったのは至極当たり前だと改めて思った。 決して、皇帝側に計画が漏れるわけにはいかないのだから。 海靖の率いていた官軍が寝返り、賊軍を吸収して都に舞い戻るという知らせはすぐに都まで伝わった。 皇太子は、皇帝に退位を迫った。 だが皇帝はなかなか首を縦に振らなかった。 皇帝にへつらっていた側近たちは、ある者は皇帝を見限り、ある者は皇帝をなおもそそのかして、最後まで甘い汁を吸おうとした。 一行の歩みは往路よりも早いものであった。 それは皇帝をあせらせたが、それでもなかなか皇帝は、退位を受け入れなかった。 皇帝の様子は、逐一海靖のもとにもたらされた。 だが海靖は、報告を聞いてもいつも落ち着いていた。 それは、勝算がはっきりとあるからだった。 ほぼ全土の軍隊が、皇帝に対し反旗を翻したことになるのだ。 どんなに抵抗を試みても、それは徒労に終わるのだ。 兵士たちの意気は高揚している。 打倒皇帝を叫び、強行軍をものともしない。 海靖はよく、劉義法と話をしていた。 政治のことから学問のことまで様々な話をしている。 梨夜もその場にいることがあったが、海靖の知識の深さには常に感嘆していた。 劉義法もいつも感心していた。 「まったく立派なお方だ」 と、劉義法はことあるごとに梨夜に言った。 それにはいつも、梨夜もうなずいた。 「皇太子さまも、海靖さまのような弟君がいらして心強いことであろう。即位なさった暁には、右腕となることは間違いない」 そして付け加えた。 「おまえの父親はめったに人を褒めない人物であったが、海靖さまのことだけはよく褒めていた。まったくおまえの父親は人を見る目があった」 そうだったのか。 梨夜自身は、父親が海靖のことに言及するのを聞いたことはない。 だが、父が海靖のことを褒めていたこと、それを知ってなんだかほっとした。 自分も、海靖のことを本当に立派だと思う。 それが父親と同じ考えと知って、安心だった。 日中の行軍中は、梨夜は海靖と話す機会はあまりなかった。 小休止のときにも、海靖は劉義法や将軍たちと話をしていることがほとんどなので、その邪魔はしないようにする。 だから、話をするのは主に夜だった。 何か用がないかと梨夜が顔を出すと、海靖は用事を頼むこともあったが、ほとんどは話の相手を求めた。 内容は他愛のないことがほとんどだった。 今日通り過ぎた街について。 道中に見える景色。 海靖は生まれてからずっと都にいるそうで、梨夜が昔、父親と共に旅をしたことがあると話すとそれを聞きたがった。 海靖の母親は皇帝の側室だったが海靖を産むとすぐに亡くなり、以降は皇后の手元で育てられたという話も聞いた。 皇后はすなわち、皇太子の生母である。 それもあって海靖は、皇太子と仲がよいのだと話してくれた。 他にも皇太子との昔話をいろいろと話して聞かせてくれる。 毎晩の話題は、ささやかなものがほとんどだったが、だからこそ、いつまでも話は尽きなかった。 話があまりに弾み、夜、寝るのが遅くなってしまうこともあった。 馬車の中でうとうとしながら、昨夜の楽しかった話を思い出したりもした。 一行が、都の一つ手前の街まで戻ってきたところで、皇帝はようやく退位を受け入れた。 皇太子に譲位することを決め、自らは離宮で暮らすこととなったのだった。 実質上、幽閉されることになる。 知らせを受けた軍勢から歓声が起こった。 梨夜も安堵していた。 これで、父の無念も少しは晴れただろう。 喜びに沸く陣営を、梨夜は改めて眺め渡した。 兵士たちはみな、笑顔で梨夜の横を通り過ぎてゆく。 梨夜はそんな兵士たちの間をすり抜けるようにして歩き出した。 陣営の端にはけやきの木が並んでいた。 その木の下に向かった梨夜は、木をじっと見上げた。 幹に触れると、力強いあたたかさを感じる。 するとそこへ海靖がやってきたのだ。 彼は今、一人だった。 彼の姿を見つけた梨夜は、そちらに向けて駆け出した。 「海靖さま」 「こんなところにいたのか。捜してしまった」 「あ…申し訳ございません」 海靖は首を振りながら梨夜に尋ねた。 「知らせは聞いただろうか」 「はい。ようございました」 海靖はうなずいた。 「これでようやく父も浮かばれることと思います。父の死も無駄にならずにすみました」 「あのままでは私も、黄泉に行ったときに彼に合わせる顔がなかった。これで彼も少しは、無念を晴らせただろうか……」 海靖はそう言いながら、先程まで梨夜がいたけやきの木の下に向かって歩き出した。 梨夜もその後を追った。 並んでゆっくりと歩いているだけで、不思議なほどに気持ちが落ち着く。 「この軍は明日までここにとどまったあと、解散する運びとなった。私も明日、都に戻る。 おまえも一緒に来なさい。おばあさまがおまえのことを心配していらっしゃるそうだ。顔を出してやってほしい」 「皇太后さまはお健やかでいらっしゃるでしょうか。さぞやご心労が重なったかと思うのですが」 「兄上からの連絡によると、ひとまずはお元気だそうだ」 それならよかったと梨夜はうなずいた。 「それで、そのあとなんだが」 「はい?」 海靖は、けやきの下で足を止めた。 そして梨夜を振り返ると、彼女に尋ねた。 だが彼は、梨夜のことは見ず、わずかに目をそらしていた。 「都に戻った後、おまえはどうする?」 戻った後? 「屋敷に戻るか?」 「でも屋敷は…」 「王渓長の屋敷は、おまえが受け継ぐべきものだ。罪人として扱われたからこそ屋敷や財産はすべて没収されてしまったが、彼はあくまでこの国のために尽くした忠臣であって、間違っても罪人などではない。兄上もすぐに、彼の名誉を回復なさるだろう」 「……」 「王渓長は、徳のある立派な人間だった。兄上もそうおっしゃっている」 梨夜はうなずいた。 そしてけやきを見上げた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |