欅(けやき)の木陰にて憩う 八 劉義法がつぶやいた。 「本当におまえの父親には済まないことをした。友人だというのに、何にもしてやれなかった…」 「劉さま、そんなことはございません」 梨夜は首を振った。 「父は劉さまと友人だったことを、誇りに思っていると思います」 「そうであればよいが…」 首を振る劉義法の肩をたたいたのは、椅子から立ち上がった海靖だった。 「では私はひとまず戻る。明朝また会おう」 「はい。では梨夜も、また明日」 と劉義法が言うと、海靖は言ったのだ。 「いや…。その子はおまえのもとにいたほうがいいだろう」 「さようでございますか?」 海靖がそう言うということは、自分はもう彼にとっては不要なのだろう。 自分をわざわざここまで連れてきたのは、最後の最後まで信じきれずにいた劉義法を、信じさせるためだったのだから。 梨夜はうなずき、この場に残ることにした。 海靖は見送りはいらないと言ったが、劉義法は川岸まで見送ると言う。 梨夜は劉義法について、川岸まで向かった。 海靖は側近を引き連れて、静かに川を渡って戻っていった。 別れ際、海靖は劉義法にはいろいろと話しかけていた。 だが梨夜には、もう何の言葉もなかった。 浅瀬を渡る水音が、月明かりの中で静かに響く。 海靖らの姿は、やがて暗闇に吸い込まれるように見えなくなって消えた。 姿が完全に見えなくなるまで見送っていた劉義法は、梨夜に声をかけた。 「おまえも足元が濡れただろう。早く乾かしなさい」 「あ…いえ、わたしは…」 まったく濡れていない足元。 自分を気づかってくれた海靖。 いくら事情を知らなかったとはいえ、これまで自分は失礼な態度を取り続けたのに。 海靖はいつも自分を気にしてくれていた。 今はいったん別れても、明日以降、劉義法の軍は海靖の率いてきた軍と合流する。 明日以降も、海靖の姿は見ることが出来るだろう。 だが、いままでの失礼を、このままなかったことにしていいのだろうか。 そんなわけはない。 このままではあまりにも申し訳が立たない。 海靖がいいと言ってくれるなら、なんとかそのそばに置いてもらって、これまでの失礼を取り返したい。 劉義法に話をすると、そうしなさいと言ってくれた。 翌朝、川岸の両軍は歓喜の声が沸き上がった。 官軍は劉義法の軍と合流し、皇帝の打倒を目指して都へ向かうと海靖が宣言したからだ。 海靖の背後に皇太子がいることは、みな承知している。 海靖の言うことはすなわち、皇太子の考えだ。 皇太子が皇帝に、力づくででも譲位をうながすというのだ。 皇太子も、皇帝に見切りをつけたのだ。 劉義法はすぐに海靖のもとに向かった。 そして今後のことを改めて確認した。 一つになった両軍は、早速その日の午後に都に向かって出立した。 どの兵士たちの足取りも軽く、速い。 梨夜が次に海靖と会えたのは、その日の晩であった。 その晩、一行は街道沿いの街に宿泊した。 兵士たちは街外れに野営であったが、海靖らは街の長官の屋敷に招かれ、そこに泊まることになった。 街の人たちの歓迎ぶりは尋常ではないもので、歓待の宴まで開かれようとしていたほどだったが、それは海靖が断ったそうだった。 梨夜も、屋敷の一室に泊めてもらえることになった。 今朝から常に海靖のそばにいる劉義法が、梨夜を呼び寄せてくれ、それで梨夜は海靖のもとに向かった。 だが部屋には劉義法はおらず、海靖は一人で壁の前に立っていた。 壁にかかっている絵を眺めていたのはすぐにわかった。 入ってきた梨夜に、海靖は尋ねた。 「私に話があるとか」 劉義法は、梨夜から話があるということを告げた上で、梨夜を呼んだのだった。 梨夜はうなずいた。 「お願いしたいことがございます」 「私に?」 「おそばにいてはいけませんか。どうかこれまでの無礼をお許しいただいて、ご恩を返させてください。いくら事情を存じ上げなかったとはいえ、わたしの態度はあまりに失礼なものでございました。お許しがいただけるのであれば、おそばでお仕えして、これまでのご恩に報いたいと存じます。このままではあまりに申し訳が立ちません」 梨夜の頼みに、海靖は初め少し驚いたようだった。 何を言い出すのかと梨夜を見つめていたが、梨夜が口を閉じると、静かに目をそらした。 そして、うなずいた。 「ありがとうございます」 よかった、と、梨夜は小さくほほ笑んだ。 そのほほ笑みを、海靖は視界の端で捕らえていた。 そして一つ息をつくと、絵に背を向けた。 「それにしても今回の件。おまえはさぞや驚いたろう。おまえには話しておこうかとも思ったのだが…」 初めは、皇太子が直接軍を率いるつもりだったという。 だが海靖が、皇太子は都にいたほうがといいと言い、自らが代わって率いることにしたそうだった。 皇子が率いた官軍の寝返りを知れば、さすがに皇帝も慌てるだろう。 それを受け、都にいる皇太子が、父帝に譲位を迫るという。 説得に応じねば、武力で退位させることになると。 「都の父上にもすぐに伝わるだろう。後は兄上が父上を説得することになっている。御自ら兄上に位を譲って退位してくださればよいが」 だが、反乱軍はおろか官軍まで敵に回した以上、皇帝がどうあがいたとて勝ち目はない。 軍はすべて、海靖の指揮下に入るからだ。 海靖は、皇太子の指示に従っている。 皇太子の説得に応じざるを得ないのだった。 「結局、おまえには話すことが出来ず、申し訳なかった。計画を聞いておけばおまえの気持ちも少しは楽になっただろうに」 それに対し、梨夜はきっぱりと首を振った。 「いいえ、とんでもない。謝るべきはわたしのほうです。いくら存じ上げなかったことはいえ、わたしは失礼なことばかり…。本当に申し訳ございませんでした。それなのに、海靖さまにはいつもお心をくだいていただいて…。ですがわたしはお礼さえ申し上げず…。もうなんと申してよいのか…」 梨夜がうつむくと、海靖は首を振った。 「おまえこそ謝る必要はない。何も気にする必要はない。…真に謝らねばならないのはこちらだ」 海靖は口を開いた。 そして、梨夜にきちんと向き直った。 「おまえの父親を助けられず、申し訳なかった」 「……」 梨夜の目に涙が浮かんだ。 浮かんだ涙はすぐに頬を伝い落ちる。 うつむいて手で顔を覆おうとした梨夜の前に、海靖が立った。 そして梨夜を抱き締めた。 背の高い彼の両腕が、梨夜をすっぽりと包み込む。 海靖の腕の中はあたたかかった。 それは彼の心の内を表しているように思えた。 彼自身が川の水に濡れても、自分のことだけは濡らさないようにしてくれる。 剣を突きつけられても、自分をかばってくれる。 今だって、計画を聞いていれば自分の気持ちも楽になっただろうにと言う。 自分の気持ちまで気にしてくれるなんて。 前からそうだったではないか。 皇太后の元にいるときから、彼は自分を気にかけてくれていた。 皇帝が自分を捜していると知ったら、すぐにかくまってくれた。 屋敷へと向かう馬車の中で、抱き寄せてくれたあの腕のあたたかさ。 悪いようにはしないと、初めから言っていたではないか。 そんな彼に謝られたら、何と返せばよいのだろう。 [*前へ][次へ#] [戻る] |