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欅(けやき)の木陰にて憩う

劉義法がつぶやいた。
「本当におまえの父親には済まないことをした。友人だというのに、何にもしてやれなかった…」
「劉さま、そんなことはございません」
梨夜は首を振った。
「父は劉さまと友人だったことを、誇りに思っていると思います」
「そうであればよいが…」
首を振る劉義法の肩をたたいたのは、椅子から立ち上がった海靖だった。
「では私はひとまず戻る。明朝また会おう」
「はい。では梨夜も、また明日」
と劉義法が言うと、海靖は言ったのだ。
「いや…。その子はおまえのもとにいたほうがいいだろう」
「さようでございますか?」

海靖がそう言うということは、自分はもう彼にとっては不要なのだろう。
自分をわざわざここまで連れてきたのは、最後の最後まで信じきれずにいた劉義法を、信じさせるためだったのだから。

梨夜はうなずき、この場に残ることにした。
海靖は見送りはいらないと言ったが、劉義法は川岸まで見送ると言う。
梨夜は劉義法について、川岸まで向かった。

海靖は側近を引き連れて、静かに川を渡って戻っていった。
別れ際、海靖は劉義法にはいろいろと話しかけていた。
だが梨夜には、もう何の言葉もなかった。

浅瀬を渡る水音が、月明かりの中で静かに響く。
海靖らの姿は、やがて暗闇に吸い込まれるように見えなくなって消えた。

姿が完全に見えなくなるまで見送っていた劉義法は、梨夜に声をかけた。
「おまえも足元が濡れただろう。早く乾かしなさい」
「あ…いえ、わたしは…」

まったく濡れていない足元。
自分を気づかってくれた海靖。

いくら事情を知らなかったとはいえ、これまで自分は失礼な態度を取り続けたのに。
海靖はいつも自分を気にしてくれていた。

今はいったん別れても、明日以降、劉義法の軍は海靖の率いてきた軍と合流する。
明日以降も、海靖の姿は見ることが出来るだろう。

だが、いままでの失礼を、このままなかったことにしていいのだろうか。
そんなわけはない。
このままではあまりにも申し訳が立たない。
海靖がいいと言ってくれるなら、なんとかそのそばに置いてもらって、これまでの失礼を取り返したい。

劉義法に話をすると、そうしなさいと言ってくれた。

翌朝、川岸の両軍は歓喜の声が沸き上がった。
官軍は劉義法の軍と合流し、皇帝の打倒を目指して都へ向かうと海靖が宣言したからだ。
海靖の背後に皇太子がいることは、みな承知している。
海靖の言うことはすなわち、皇太子の考えだ。
皇太子が皇帝に、力づくででも譲位をうながすというのだ。
皇太子も、皇帝に見切りをつけたのだ。

劉義法はすぐに海靖のもとに向かった。
そして今後のことを改めて確認した。
一つになった両軍は、早速その日の午後に都に向かって出立した。
どの兵士たちの足取りも軽く、速い。

梨夜が次に海靖と会えたのは、その日の晩であった。

その晩、一行は街道沿いの街に宿泊した。
兵士たちは街外れに野営であったが、海靖らは街の長官の屋敷に招かれ、そこに泊まることになった。
街の人たちの歓迎ぶりは尋常ではないもので、歓待の宴まで開かれようとしていたほどだったが、それは海靖が断ったそうだった。

梨夜も、屋敷の一室に泊めてもらえることになった。
今朝から常に海靖のそばにいる劉義法が、梨夜を呼び寄せてくれ、それで梨夜は海靖のもとに向かった。
だが部屋には劉義法はおらず、海靖は一人で壁の前に立っていた。
壁にかかっている絵を眺めていたのはすぐにわかった。

入ってきた梨夜に、海靖は尋ねた。
「私に話があるとか」
劉義法は、梨夜から話があるということを告げた上で、梨夜を呼んだのだった。
梨夜はうなずいた。
「お願いしたいことがございます」
「私に?」
「おそばにいてはいけませんか。どうかこれまでの無礼をお許しいただいて、ご恩を返させてください。いくら事情を存じ上げなかったとはいえ、わたしの態度はあまりに失礼なものでございました。お許しがいただけるのであれば、おそばでお仕えして、これまでのご恩に報いたいと存じます。このままではあまりに申し訳が立ちません」

梨夜の頼みに、海靖は初め少し驚いたようだった。
何を言い出すのかと梨夜を見つめていたが、梨夜が口を閉じると、静かに目をそらした。
そして、うなずいた。
「ありがとうございます」
よかった、と、梨夜は小さくほほ笑んだ。
そのほほ笑みを、海靖は視界の端で捕らえていた。
そして一つ息をつくと、絵に背を向けた。

「それにしても今回の件。おまえはさぞや驚いたろう。おまえには話しておこうかとも思ったのだが…」

初めは、皇太子が直接軍を率いるつもりだったという。
だが海靖が、皇太子は都にいたほうがといいと言い、自らが代わって率いることにしたそうだった。
皇子が率いた官軍の寝返りを知れば、さすがに皇帝も慌てるだろう。
それを受け、都にいる皇太子が、父帝に譲位を迫るという。
説得に応じねば、武力で退位させることになると。

「都の父上にもすぐに伝わるだろう。後は兄上が父上を説得することになっている。御自ら兄上に位を譲って退位してくださればよいが」

だが、反乱軍はおろか官軍まで敵に回した以上、皇帝がどうあがいたとて勝ち目はない。
軍はすべて、海靖の指揮下に入るからだ。
海靖は、皇太子の指示に従っている。
皇太子の説得に応じざるを得ないのだった。

「結局、おまえには話すことが出来ず、申し訳なかった。計画を聞いておけばおまえの気持ちも少しは楽になっただろうに」
それに対し、梨夜はきっぱりと首を振った。
「いいえ、とんでもない。謝るべきはわたしのほうです。いくら存じ上げなかったことはいえ、わたしは失礼なことばかり…。本当に申し訳ございませんでした。それなのに、海靖さまにはいつもお心をくだいていただいて…。ですがわたしはお礼さえ申し上げず…。もうなんと申してよいのか…」
梨夜がうつむくと、海靖は首を振った。
「おまえこそ謝る必要はない。何も気にする必要はない。…真に謝らねばならないのはこちらだ」
海靖は口を開いた。
そして、梨夜にきちんと向き直った。
「おまえの父親を助けられず、申し訳なかった」
「……」
梨夜の目に涙が浮かんだ。
浮かんだ涙はすぐに頬を伝い落ちる。

うつむいて手で顔を覆おうとした梨夜の前に、海靖が立った。
そして梨夜を抱き締めた。
背の高い彼の両腕が、梨夜をすっぽりと包み込む。

海靖の腕の中はあたたかかった。
それは彼の心の内を表しているように思えた。
彼自身が川の水に濡れても、自分のことだけは濡らさないようにしてくれる。
剣を突きつけられても、自分をかばってくれる。
今だって、計画を聞いていれば自分の気持ちも楽になっただろうにと言う。
自分の気持ちまで気にしてくれるなんて。

前からそうだったではないか。
皇太后の元にいるときから、彼は自分を気にかけてくれていた。
皇帝が自分を捜していると知ったら、すぐにかくまってくれた。
屋敷へと向かう馬車の中で、抱き寄せてくれたあの腕のあたたかさ。
悪いようにはしないと、初めから言っていたではないか。

そんな彼に謝られたら、何と返せばよいのだろう。


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